「すべては歓声のために」。プロ野球、今季のスローガン。あんまり格好よくないなあ…。




20060309句(前日までの二句を含む)

March 0932006

 鳥雲に人みな妻を遺し死す

                           安住 敦

語は「鳥雲に(入る)」で春。越冬して北に帰る渡り鳥が、雲に入るように見えること。別の春の季語「鳥帰る」の比喩的な表現だ。私くらいの年齢になると、友人知己の何人かは物故しているので、こういう句には弱い。ほろりとさせられる。この春も、鳥たちが帰っていく。雲の彼方に消えていく彼らの姿を見送っていると、自然界の一つの生命や生活のサイクルが終わっていくという思いに駆られることになる。そして、この心情が人間界に及ぶのもごく自然の流れであって、作者は死別した誰かれのことを思い出すのだが、このとき同時にふっと、その誰かれが「遺した」妻たちのその後のことを気にかけている。実際、私の場合でもそうだけれど、亡くなった友人の奥さんとは、たいていは葬儀が終わると没交渉になってしまうので、何年かが経つとかすかな消息すらもわからなくなるケースがほとんどだ。ときどき、どうしているかな、苦労しているのではなかろうかなどと思うこともあるのだが、風の便りすら途絶えているのだから、どうにも知りようがない。友人が若くて元気なころには、よくいっしょに遊びに出かけたような奥さんでも同様である。人との関係や付き合いなんてはかないものだと思うと、余計に感傷的になってきてしまう。すなわち「人はみな妻を遺し」て死んでゆくのだなあと、「人はみな」の誇張は承知の上で、このように詠んだ作者の詠嘆ぶりには、年配の男性読者諸氏であれば大いに共感できるのではあるまいか。春の日の、ものさびしい一齣である。俳誌「春燈・60周年記念号」(2006年3月号)所載。(清水哲男)




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