「春燈」60周年記念号に創刊号が復刻され綴じ込まれている。32ページながら中身は濃い。




20060308句(前日までの二句を含む)

March 0832006

 雄鶏の一歩あゆめば九十九里

                           村井和一

季句。うわあっ、とてつもなくでっかい「雄鶏」の出現だ。「一歩」の幅が「九十九里」もあるニワトリだなんて。と、仰天する人は、実はいないだろう。誰もが、「九十九里」が地名であることを知っているからだ。実際には、この雄鶏は九十九里で飼われているわけで、一歩もあゆまなくとも、そこは九十九里なのである。けれども、作者があえて地名を実際の距離に読み替えてみることで、眼前の雄鶏がいきなりゴジラ以上に巨大になってしまったのだ。想像するだに、ものすごい。遊び心の旺盛な楽しい句だ。句集の解説者・大畑等によれば、作者の句作の源にあるのは、落語と雜俳(ざっぱい)だという。「蕪村や芭蕉ではなく雜俳なのである。一見、低俗粗悪の価値観と見なされているこのことばにこそ作者の方法がある」。さも、ありなん。機会を見て他の句も紹介したいが、「自分の人生を俳句でなぞるようなこと」や「俳句を人生の足しに」したくないと言う作者の面目躍如たる句がふんだんにある。だが、正直に言って,いまの俳句界の趨勢からすると、こうした句はなかなか受け入れられないだろう。その根拠をたどれば、明治国家の性急な近代化路線にまで行き着くが、大畑も指摘しているように、現在にまで及ぶ子規の俳句革新運動が切り捨てたもののなかに、こうした雜俳的遊びの精神も含まれていた。以来、この国の俳人たちは急に糞真面目になり、にこりともしなくなってしまったのだ。俳句ばかりではなく、日本文学からほとんど笑いや楽しさが消えてしまった状態は、私たちの日常生活に照らすだけでも、ずいぶんと変てこりんであることがわかる。『もてなし』(2005)所収。(清水哲男)




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