最近の検察は正義の味方。びしばしやっているが、この姿が怖いと言ったらへそ曲がりか。




20060307句(前日までの二句を含む)

March 0732006

 春の宵遺体の母と二人きり

                           太田土男

語は「春の宵」。句意は明瞭だ。通夜の座で、束の間のことではあろうが、たまたま部屋に一人きりとなった。いや、正確には「母と二人きり」になった。そのことを詠んでいるだけだが、普通の感覚からすると「遺体」という表現はひどく生々しくて気にかかる。そこまであからさまな言い方はしなくても、他にいくらでも言い換えは可能だ。だが作者は、それを百も承知で「遺体」と言わざるを得なかったのだと思う。つまりこの句では、この「遺体」の表現に込められた思いが重要なのである。すなわち、母上が亡くなり、その死を覚悟していたかどうかは別にして、作者はいざ母の死に直面して混乱してしまっている。いわば悲しみのわき上がってくる前の心の持ち方が、定まらないのだ。だからこそ、いま目の前に横たわっている母は、既に故人なのだということを、何度もおのれ自身に言い聞かせなければならなかったのだろう。それが作者に,生々しくも「遺体」という表現をとらせたのだと思われる。となれば、お母さんはもう「遺体」なのだと何度も繰り返し、戸惑いを克服して自己納得するまでの精神的経緯が、すなわち掲句のテーマでなければならない。したがってこの句は、通常言うところの惜別の句などではない。あくまでも自己に執した、自己憐憫の静かな歌だ。句集では,この句のあとに「蝶々と百歳の母渉りゆく」があり、生々しい「遺体」句を読んだ読者は、ここでようやくほっとできるのである。『草原』(2006)所収。(清水哲男)




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