March 062006
水温み頁ふえたり週刊誌
三宅応人
季語は「水温む」で春。いつ頃の句だろうか。時代感覚とは面白いものだ。もはや、この句に「現代」を感じる人はいないだろうが、でも、この句が多数の人たちに共感をもって迎えられたであろう時代は確かにあった。買い求めた週刊誌の頁(ページ)が増えていることで、何かずいぶん得をした気分になり、「水温む」の自然ばかりではなく、作者の心もまた春めいてきたという句である。たしかに昔は、中身には関係なく、増ページは素朴に嬉しかった。半世紀近くも前の子供向け雑誌の付録合戦もまた同じことで,あの本誌から飛び出さんばかり(いや、完全に飛び出していたな)の別冊漫画本の物量感にわくわくした思い出をお持ちの読者も少なくないはずだ。しかし現代では、週刊誌のページ数がどうであろうが、そのことを喜んだり哀しんだりする気持ちはなくなってしまっている。こういう句を読んでも、だから一種の古くささだけを感じてしまうことになる。むろんこれは作者のせいではなくて、時代のせいなのである。これまでにも何度か書いてきたように、俳句にはその時代のスナップ写真みたいなところが多々あって、作句時に作者がさして意識もしていなかった何かが、後の世になってみると良く見えてきて,それが句の中身と言うか、作者の意図を越えたところで貴重になることがあるものなのだ。掲句もまたそういう意味で、いわば時代の綾を写し取った作品として珍重さるべきだろう。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|