地元の「むさしのエフエム」で久しぶりの生放送70分。小中学生の朗読会の司会進行だ。




20060304句(前日までの二句を含む)

March 0432006

 ほのぼのと熱あがりけり春の宵

                           清水基吉

語は「春の宵」。「春宵一刻値千金」の詩句から、昔は「千金の夜」などという季語もあったそうだ。明るく艶めいていて、そこはかとなく感傷を誘い、浪漫的な雰囲気のある春の夜である。掲句は、そんな春の宵に「熱」があがったと言うのであるが、この熱は外気温ではなくて体温のことだろう。身体の熱が「ほのぼのと」あがるとは奇異な表現に思えるかもしれないけれど、しかし、こうした感じになることはあるのだと思う。いわば微熱状態が、当人にとっては不快ではなく、むしろとろとろとして安らかな気分であるというわけだ。身体は不調であるのに、むしろほのぼのとした実感を覚えている。私の体験からすると、若いうちは感じられなかった独特の安らかさである。近年、これに近い状態を詩に書いたことがあって、出だしは次の通りだ。「ここでは/気温と体温とが/あらがうことなく融合する/いつからだろうか/それに気がついたのは//ここでは/融合すると間もなく/骨という骨が皮膚から少しずつ滲み出て/声という声が甘辛く皮膚から浸透して来て/人として獲得してきたあらゆるものが/溶けていくように感じられつつ/逆に緩慢に凝固しつづけるのです……」(「べらまっちゃ」2004年)。微熱状態が安らぎに通じるのは、気温と体温とが「あらがうことなく」、ちょうど良い案配に溶け合うような感じになるときである。「春の宵」は気温もちょうど良いし、加えて艶めいた雰囲気が安らぎを助長する。それにもう一つ年輪が加わり、少々の熱が出ようが、体力の衰えを知る者には、焦っても仕方がないという一種の精神的な余裕が生じるからではないかと思われるのだか、どうだろうか。俳誌「日矢」(2006年3月号)所載。(清水哲男)




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