また子供に関わる事件。一個人の犯行ではあるが、我々の社会に病巣があるのではないか。




20060218句(前日までの二句を含む)

February 1822006

 菫程な小さき人に生れたし

                           夏目漱石

語は「菫(すみれ)」で春。大の男にしては、なんとまあ可憐な願望であることよ。そう読んでおいても一向に構わないのだけれど、私はもう少し深読みしておきたい。というのも、この句と前後して書かれていた小説が『草枕』だったからである。例の有名な書き出しを持つ作品だ。「山路を登りながら、こう考えた。/智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい」。この後につづく何行かを私なりに理解すれば、作者は人間というものは素晴らしいが、その人間が作る「世」、すなわち人間社会はわずらわしく鬱陶しいと言っている。だから、人間は止めたくないのだが、社会のしがらみには関わりたくない。そんな夢のような条件を満たすためには、掲句のような「小さき人」に生まれることくらいしかないだろうというわけだ。では、夢がかなって「菫程な」人に生まれたとすると、その人は何をするのだろうか。その答えが、小品『文鳥』にちらっと出てくる。鈴木三重吉に言われるままに文鳥を飼う話で、餌をついばむ場面にこうある。「咽喉の所で微(かすか)な音がする。また嘴を粟の真中に落す。また微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細やかで、しかも非常に速(すみや)かである。菫ほどな小さい人が、黄金の槌(つち)で瑪瑙(めのう)の碁石でもつづけ様に敲(たた)いているような気がする」。すなわち、人として生まれ、しかし人々の作る仕組みには入らず、ただ自分の好きな美的な行為に熱中していればよい。そんなふうな人が、漱石の理想とした「菫程な小さき人」であったのだろう。すると「菫」から連想される可憐さは容姿にではなくて、むしろこの人の行為に関わるとイメージすべきなのかもしれない。『漱石俳句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)




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