昨日の誕生日には、たくさんの方々からメッセージをいただきました。感謝申し上げます。




20060216句(前日までの二句を含む)

February 1622006

 捕虜われに老いし母あり春の雲

                           塩尻青笳

語は「春の雲」。ふわりと浮いて、淡い愁いを含んだような綿雲はいかにも春の雲らしい。この句の決め手になるのは、「捕虜(ほりょ)」でもなければ「老いし母」でもない。一見何の変哲もない「春の雲」だ。もとより「捕虜」にも「老いし母」にも、のっぴきならない現実として重いものがあるが、逆に言えば、もうこの取り合わせだけで俳句の九割はできてしまっている。そこに季感を与えるべく下五に季語を置くわけだが、このときに数ある春の季語のなかから何を持ってくればよいのかは、大いに迷うところだろう。というのも、テーマからしてつき過ぎになる季語は多そうだし、かといってあまりに突飛なものでは中身がそこなわれてしまいそうだからだ。悩ましい考えどころである。そこで偉そうなふうに言うことになるけれど、こういうときにはかえって何も考えないほうがよいのだと思う。あれこれ考えてしまうと、句のどこかから作為が洩れ見えてしまい、せっかくの題材が濁ってしまいかねない。そこで作者は、見たままそのままの何でもない「春の雲」を据えることで、名状し難いほどに切ない胸中を濁りなく吐露し得たのだった。と同時に、気がつけば、この「春の雲」の存在感のしっかりしていることよ。それは掲句が構想される以前から、作者の眼前に浮かんでいたようではないか。こういうことを書いたのは、他でもない。多くの句を読んでいると、あたら良い題材を掴みながらも、それを作為でつぶしてしまっている例が目立つからである。厳密に言えば作為のない句などはあり得ないが、極力それは排除されるべきだろう。『天山』(1965)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます