November 302005
汁の椀はなさずおほき嚔なる
中原道夫
季語は「嚔(くさめ・くしゃみ)」で冬。私などは「くしゃみ」と言ってきたが、「くさめ」は文語体なのだろうか。日常会話では聞いたことがないと思う。句で嚔をしたのは、作者ではない。会食か宴席で、たまたま近くにいた人のたまたまの嚔である。ふと気配を感じてそちらを見ると、「ふぁふぁっ」と今にも飛び出しそうだ。しかも彼は、あろうことか汁がまだたっぶりと入った椀を手にしたままではないか。「やばいっ」と口にこそ出さねども、身構えた途端に「おほき嚔」が飛び出してきた。このときに、汁がこぼれたかどうかはどうでもよろしい。とりあえずの一件落着に、当人はもとより作者もまたほっとしている。安堵の句なのだ。汁碗を持ったままの嚔は滑稽感を誘うが、汁碗でなくとも、何かを持ったまま嚔をしたことのある人がほとんどだろう。収まってみれば、何故持ったまま頑張ったのかがわからない。よほどその汁の味が気に入っていたのだという解釈もなりたつけれど、そうではなくて私は、汁碗をもったままのほうがノーマルな感覚だと思う。それはこれから嚔をする人の心の中に、たとえ出たとしても「おほき嚔」でないことを願う気持ちがあるからだ。汁碗を持って我慢しているうちに、止まってしまうかもしれないし……。すなわち「おほき恥」を掻きたくないために、最後まで平然を装う心理が働くからなのである。だから、この句は誰にでもわかる。誰にでも、思い当たる。ただし、しょっちゅう嚔が出る人はこの限りではない。出そうになったらさっと上手に汁碗を置いて、すっと後ろを向くだろう。『銀化』(1998)所収。(清水哲男)
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