八年ぶりの詩集『黄燐と投げ縄』(書肆山田)が出ました。詳しくは来週ご案内します。




20051112句(前日までの二句を含む)

November 12112005

 子供らの名を呼びたがふ七五三祝

                           福田甲子雄

語は「七五三(祝)」で、冬。「七五三祝」の場合は「しめいわい」と読む。男の子は数え年三歳と五歳、女の子は三歳と七歳を祝う。十一月十五日だが、今日と明日の休日を利用して氏神に詣でるお宅も多いだろう。句の「子供ら」は、お孫さんたちだろうか。たまたまこの年に何人かの祝いが重なって、作者宅に集まった。むろん、直接この年の七五三には関係のない兄弟姉妹も集まっているから、いやまあ、その賑やかなこと。上機嫌の作者は、何かと「子供ら」に呼びかけたりするわけだが、何度も「名前を呼びたがふ(呼び間違える)」ことになって苦笑している。覚えのある読者もおられるに違いない。あれは、どういう加減からなのか。その子の名前を忘れているのではないのだが、咄嗟に別の名前が出て来てしまう。すぐに訂正するつもりで、またまた別の名前を呼んでしまうことすらある。孫大集合などは滅多にないことなので、迎える側が多少浮き足立っているせいかもしれない。でも、それだけではなさそうだ。考えてみれば名前は人を識別する記号だから、識別する必要のない環境であれば、名前などなくてもよい理屈だ。掲句のケースだと、たくさんの孫に囲まれて作者は大満足。環境としては、どの孫にも等分の愛情を感じているわけで、すなわち記号としての名前などは二の次となる。だから「呼びたがふ」のも当たり前なのだ。と思ってはみるものの、しかしこれはどこか屁理屈めいていそうだ。何故、しばしば間違えるのか。どなたか、すかっとする回答をお願いします。『草虱』(2003)所収。(清水哲男)




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