ヤクルト古田が選手兼任で来季監督。兼任といえば南海の山本(鶴岡)一人を思い出す。




20051019句(前日までの二句を含む)

October 19102005

 殺めては拭きとる京の秋の暮

                           摂津幸彦

語は「秋の暮」。秋の終りのことではなく、秋の日暮れのこと。昔はこの両方の意味で使われていたが、今では日暮れ時だけに用いる。ちなみに、秋の終りは「暮の秋」と言う。千年の都であり国際的な観光都市として知られる京都は、先の大戦でも戦火を免れ、いまや平和で平穏な街というイメージが濃い。なんだか昔からずっとそのようであった錯覚を抱きがちだが、歴史的に見れば「京」は戦乱と殺戮にまみれてきた土地でもある。古くは十年間に及んだ応仁文明の乱がすぐに想起されるし,新撰組による血の粛清からでもまだ百年と少々しか経っていない。これら有名な殺戮の歴史だけではなく、都であったがゆえの血で血を洗う抗争の類は数えきれないほどあったろう。だが、「京」はそんな殺戮があるたびに、それを一つずつ丁寧に「拭きと」ってきた歴史を持つ街なのであり、さらには現代の「京」にもまたそんなところがあると、掲句は言っている。したがって、この句の「秋の暮」に吹いているのは、荒涼たる無常の風だ。京都市にはいま、およそ1700近くの寺があるそうだが、これら寺院の「殺(あや)めては拭きとる」役割にも大きなものがあったと思われる。それでなくとも物寂しい「秋の暮」に、句から吹き起こる無常の風は、骨の髄まで沁みてくるようだ。怖い句である。『鳥屋』(1986)所収。(清水哲男)




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