今宵は大学時代の同人誌仲間が集まる。数えてみたら、もう四十年を越える付き合いだ。




20051008句(前日までの二句を含む)

October 08102005

 通帳にらんで女動かぬ道の端

                           きむらけんじ

季句。この「女」のひとにはまことに失礼ながら、思わず吹き出しそうになってしまった。たったいましがた、銀行で記入してきたばかりの「通帳」なのだろう。記入したときにちらりと目を走らせた数字があまりに気になって、家まで見ないでおくことに我慢ができず、ついに「道の端」で開いてしまった。むろん、残高は予想外の少なさである。どうして、こんなに少ないのか。何度も明細を確かめるべく、彼女は身じろぎもしない。不動のまま「にらんで」いる。世の中には、本人が真剣であればあるほど、他者には可笑しく思われることがある。これも、その一つだ。道端で通帳をにらむという、そうザラにはない図を見逃さなかった作者のセンスが良く生きている。掲句はたまたま五七五の定型に近いが、作者は自由律俳句の人だ。第一回「尾崎放哉賞」受賞。「煙突は立つほかなくて台風が来ている」「職の無い日をスタスタ歩く」「妻よ南瓜はこの世に必要なのか」など。いずれも、ユーモアとペーソスの味が効いている。ところで「自由律俳句」についてだが、放哉や山頭火などの流れのなかの句は、たしかに伝統的な定型句とは異なる「律」で詠まれてはいる。けれども、こうした自由律にはまたそこに確固とした独自の定型的な「律」があるのであって、これを「自由な律」と称するのは如何なものかと思う。何か他に、適当な呼称を発明する必要がありそうだ。『鳩を蹴る』(2005)所収。(清水哲男)




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