October 062005
山里の子も毬栗も笑はざる
大串 章
季語は「毬栗(いがぐり)」で秋、「栗」に分類。かつて、作者もまた「山里の子」であった。往時の自分や友人たちの表情と重ねあわせての作句だと思う。最近の箱根で詠んだ句のようだが、たまたま道で出会った「子」の顔に笑いがないことに気がついて、ハッとしている。この場合、笑いとはいっても微笑み程度のそれだ。もっと言えば、社交辞令的な笑いである。都会に暮らしていると、大人はもとより、子供にもコミニュケーションをスムーズにするための微笑みは不可欠だろう。大人に声をかけられたりすると、たいていの子は笑みを含んだ表情をする。ところが、句の「子」はにこりともしなかった。山里ゆえに、不特定多数の人々とのコミニュケーションの必要がないせいである。可笑しくもないのに、知らない人にへらへらとはできない。べつにそういう信念があるわけでもないのだが、都会の子のようにちょっと笑みを含むことすらも、不本意な媚びに通じるようで嫌なのだ。そんな子の表情を久しぶりに見た作者は、子供だった頃の自分たちもそのようだったと思い出して、笑わない里の子に大いに共感を覚えたのだった。折しも頭上には爆ぜかけた毬栗が見られ、笑い顔に見えないこともないけれど、その子の表情を見た目には、もうそのようには写らない。マセてもいないしスレてもいないピュアな表情の魅力。ついでにこの子が毬栗頭であれば面白いのにとも思ったが、そこまでは、どうだったのかしらん……。俳誌「百鳥」(2005年10月号)所載。(清水哲男)
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