あなたにハリケーン、こなたにタイフーン。通りすぎていくのをじいっと待つしかない。




20050925句(前日までの二句を含む)

September 2592005

 鳴く雁を仰ぐ六才ともなれば

                           辻田克巳

語は「雁(かり)」で秋。最近、アメリカのサイトで興味深い記事を読んだ。新しいデジカメを買ったので、これまで使っていた古い機種を間もなく五才になる息子に与えてみた。間もなく五才「ともなれば」、一通りの操作はできるようだ。いろいろと彼が撮った写真を見てみると、大人とはかなり被写体への関心が違っているのがわかった。人物写真の多くには顔が映っておらず、またカメラがまっすぐになっているかなどには頓着していない。前者について筆者は、一メートルそこそこの身長では、彼の視野に日頃さして人の顔が入ってこないためだろうと分析し、後者については、その無頓着がユニークなセンスとして表現されていると驚いている。すなわち、大人と子供とでは日常的な視野が違うし、関心の持ちようも大違いというわけだ。それがだんだん成長するに連れ、いわば分別がついてきて、顔のない人物写真などは撮らなくなってしまう。この話の延長上で掲句を捉えると、やはり「六才ともなれば」、五才とはだいぶ違った様子になる。むろん「鳴く雁」に風情を感じているのではないが、仕草だけを見れば、かなり分別くさく写る。子煩悩ならば、その成長ぶりに目を細めることだろう。そしてこの句の良さは、こうした六才の仕草を通じて、読者それぞれに六才だった頃のことを思い出させるところだ。自分のときは、どうだったかな。ときどき書いてきたように、私の六才の空には、たいていB-29の機影と探照灯の光帯があった。「俳句」(2005年10月号)所載。(清水哲男)




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