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July 1772005

 大股になるよサングラスして横浜

                           川角曽恵

語は「サングラス」で夏。いいですね、この破調。「横浜」の体言止めも効いている。作者は横浜在住の人ではなく、遊びに来ているのだろう。地元ではかけないサングラスをして、ちょっと別人になった気分で街を歩いている。サングラスの効果でその気分も高揚し、足取りもひとりでに「大股」になってゆく。まるで映画か物語の主人公になったようで、心地よい。そして、この街は東京でもなく大阪でもなく、横浜なのだ。港町の自由で開放的な雰囲気が、サングラスにとてもよく似合っている。サングラスにもよるけれど、玉の色の濃いものだと、外部からはかけている人の目の動きは見えない。そのことを承知してかけていると、かけていないときよりも視線はぐんと大胆になる。普段なら自然にすっと視線を外すような相手でも、目を逸らさなくてすむ。私は三十代のころにサングラスを愛用した経験があるので、作者の弾む気持ちがよくわかる。この弾む気持ちを持続したくて、そのうちに夜の時間もかけるようになってしまった。早い話が、サングラス中毒になっちゃった。美空ひばりの母親が野坂昭如をなじって、「夜の夜中にサングラスをしているような男を、私は信用できない」と言ったころのことだ。ひばりファンの私としては大いに困惑したけれど、結局中毒には長い間勝てなかった。あのサングラス、家の中のどこかにまだあるはずだが……。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


June 0962007

 眼のほかは長所なき顔サングラス

                           吉村ひさ志

どいこと言うなあ…クスッとしつつ思った。眼のほかに長所がない、と断言しているのだ。しかしよく考えると褒めているのだとわかってくる、よほど素敵な眼の持ち主なのである。目、でなく、眼であるから、その眼差しにまた表情のある魅力的な女性(おそらく)なのだろう。これがもし、眼のほかに、であったとしたら、まああえて長所をあげるなら眼だね、と、「長所なき顔」が強調される。それを、眼のほかは、と、限定の助詞「は」にしたことで、魅力的な眼が強調され、サングラスをはずしたその眼をあれこれ想像しつつ、個性的であろうその女性への作者の親愛の情もうかがえる。成瀬正としに〈サングラス瞳失せても美しや〉という正攻法の一句があるが、掲句の味わいは捨てがたい。句集に並んで〈団扇手に今は平和な老夫婦〉とある。団扇という季題も効いているが、やはり、「は」という助詞がうまく働いている一句と思う。あとがきに、「大方の季題を理解し、見たまま、思ったことを五・七・五で表現するのには、五十年の句歴が必要であるとの思いである。」とある作者だが、昨年二月急逝されたと聞く。享年八十歳。あとがきにはまた、句集の名は、作者が愛した故郷群馬のぶな林からとった、とも。〈踏む音の独りの時の登山靴〉『ぶな(木ヘンに無)林』(1999)所収。(今井肖子)


July 2972007

 ひきだしに海を映さぬサングラス

                           神野紗希

ったりとした日常の世界から、容易に創作の場へ飛び移ることの出来る言葉があります。「ひきだし」も、そのような便利な言葉のひとつです。おそらく、そこだけの閉じられた世界というのが、作者の想像を刺激し、ミニチュアの空間を作り上げる楽しみをもたらすからなのです。ただ、そのような刺激はだれもが同じように受けるものです。「ひきだし」を際立たせて描くためには、それなりに独自の視点を示さなければなりません。掲句に惹かれたのは、おそらくひきだしの中に込められた夏の海のせいです。思わず取っ手に手をかけて、こちらへ大きく引き出してみたくなります。「映さぬ」と、否定形ではありますが、言葉というものは不思議なもので、「海を映さぬ」と書かれているのに、頭の中には、はるかに波打つ海を広げてしまうのです。同様にその海は、サングラスにもくっきりと映り、細かな砂までもが付いているのです。夏も終りの頃に詠まれた句でしょうか。すでに水を拭い去ったサングラスが、無造作にひきだしに放り込まれています。その夏、サングラスがまぶしく映したものは、もちろん海だけではなかったのでしょう。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


May 0752011

 真円の水平線や卯浪寄す

                           竹岡俊一

円の水平線、ということは、視界三百六十度見渡す限りひたすら海、大海原のど真ん中にいるのだろう。また真円は、水平線が描く弧から球体である地球を大きく感じさせ、卯浪は、初夏の風と共に尽きることなく船に向かって寄せている。それを乗り越え乗り越え、船はひたすら海をつっきて進んでいるのだ。この句は「六分儀(ろくぶんぎ)」と題された連作のうちの一句で、作者は海上自衛隊勤務という。六分儀は、天体の高度を計測する航海用の器械とのこと。掲出句の卯浪には、私達が陸から遙か沖に立っているのを眺めているのとは違った力強さがある。〈サングラス艦長席の摩り切れて〉〈登舷礼やや汚れたる白靴も〉サングラス、白靴、これらも同様に日常とは別の表情を見せていて興味深い。「花鳥諷詠」(2011・3月号)所載。(今井肖子)


July 1072011

 待たさるることは嫌ひなサングラス

                           安藤久美

の句を読んだ時に、どうしても思い出してしまうのは、つい先日、辞任をした大臣のことです。数分待たされただけで、相手を叱りつけていた映像を幾度か見ましたが、人が人を叱っているところを見るのは、なんともつらいものです。みちなかで、小さな子どもを叱りつけている母親を見るのもいやだし、電車の中で頑固そうな老人が、奥さんを意地悪くいじめているのを見るのも、いやな気分です。サングラスというと、どこか横柄で威張った感じがするので、このような句ができたのでしょう。確かにうまいなと思います。でも、サングラスをかけている人が皆、横柄かと言うと、もちろんそんなことはありません。どちらかというと内気で、人の顔もまともに見られないデリケートな心の持ち主だって、ひっそりとサングラスをかけます。そういえばあの元大臣は、記者会見で薄いサングラスをかけていたなと、また思い出してしまいました。この句にはなんの関係もないのだとは、もちろんわかっているのですが。『新日本大歳時記』(2000・講談社) 所載。(松下育男)


July 0972013

 帆を張れば船膨らみし青葉潮

                           河原敬子

日、日本丸の総帆展帆(そうはんてんぱん)を見に行く機会があった。青空の下、一時間ほどかけて乗組員たちの掛け声とともに29枚すべての帆を広げた帆船は、見ているものの誰もが息をのむ美しさだった。それはまるで、大きな蝶が羽化しているさまを目の当たりにしているような、帆船が帆船として息を吹き返しているような、なんとも不思議な時間が海の上に流れていた。かつてはその姿の美しさから「太平洋の白鳥」と称されたとの説明を読み、そのとき感じたどこと言えない胸のわだかまりがなんであるかに気づいた。それは、船が繋留されたままであるという不自然さだった。太平洋の白鳥は岸に繋がれたまま羽を広げていたのだ。動物園に飼われた雄々しい動物を見るときに感じる胸の痛みであった。総帆展帆して帆を風に膨らませても進むことは叶わないのだ。いつか大海に浮かぶ帆船の本当の美しさを見ることはできるだろうか。〈サングラス外しほんたうの海の色〉〈花の名を後ろ送りに尾瀬の夏〉『恩寵』(2013)所収。(土肥あき子)




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