July 01 2005
暇乞い旁百合を嗅いでいる
池田澄子
季語は「百合」で夏。「旁」は「かたがた」。玄関先だろうか。「暇(いとま)乞い」に訪れた人が、たまたまそこに活けてあった「百合を嗅いでいる」。百合を嗅ぐ行為と暇乞いとは何の関係もないのだけれど、ほとんどの読者はこの情景を、ごく自然なものとして受け入れるだろう。訪ねてきた人を変わった人だなどとは、まず思わない。それはおそらく、シチュエーションは違っても、私たちは日常的にこの種の行為を自分で繰り返したり目撃したりしているからだと思う。何かをする「旁」、ほとんど無意識的に目的とは無関係な行為をプラスするのだ。何故だろうか。……と問うほうが実は変なのであって、人間は合目的的な行為だけを選択し実践しているわけじゃない。合理の世界から言えば、むしろ無駄な行為を多く実践することによって、人はようやく合理に近づけるのではなかろうか。句の人の合理は、むろん暇乞いにある。が、暇乞いとは通常別れ難い感情を内包しているから、単に事務的に口上を述べればよいというものではない。いくら言葉で別れ難さを表現したとしても、口上では表現できない感情の部分が残ってしまう。何かまだ、相手には伝え足りない。落ち着かない。そんな思いが、突然百合の香を嗅ぐという非合理的な行為につながった。心理学者じゃないので、当てずっぽうに言ってみているだけだが、これも人情の機微の不思議なところで、その一瞬を逃さずに詠んだ作者の目は冴えに冴えているとしか言いようが無い。『たましいの話』(2005)所収。(清水哲男)
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