前夜義母は何の変調もなく朝方亡くなっていた。私の祖父もそうだった。そうありたい。




20050612句(前日までの二句を含む)

June 1262005

 だんだんにけぶりて梅雨の木となれり

                           石田勝彦

語は「梅雨」で夏。しとしとと降りはじめた六月の雨。青葉の盛んな木は、はじめのうちは雨にあらがうような様子を見せていた。が、それもひそやかな雨に「だんだんに」けぶってゆくうちに、いつしかしっくりと梅雨に似合う木と化したと言うのである。句意はこんなところだろうが、私なりの掲句への関心は、作者が何故このような情景を詠んだのかという点にある。というのも、この情景は格別に新鮮でもなければ意外性があるわけでもないからだ。なのに、この素材で一句を構えた作者の発想の根っ子には何があるのだろうか。句にするからには、作者はこのいわば平凡な情景に面白さを覚えていることになる。その意識の先には、煎じ詰めれば自然の秩序への憧憬といったものがあるのだろう。いろいろな現象や事物が、収まるべきところに収まる。この自然の秩序に目が向くのは、やはり作者自身も収まるところに収まりたいからだと言える。つまり作者は人であって木ではないけれど、こうした情景に触れるにつけ、人であるよりもむしろ木でありたいと願望するのだ。言い換えれば、小癪な人智で自然に拮抗するのではなく、人智を離れて自然に同化したい心持ちからの作である。八十歳を越えた作者の年輪が、しみじみと腑に落ちる一句だ。『秋興以後』(2005)所収。(清水哲男)




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