June 08 2005
梅雨よわが名刀肥後ノ守錆びたり
原子公平
季語は「梅雨」で夏。作者、晩年の句。慷慨句とでも言うべきか。茫々たる梅雨のなか、もはや沈滞した気分を払いのけるでもなく、鬱々と楽しめぬままに過ごしている。これで若ければ、なにくその気概もわいてきたろうが、そんな気力も出てこない。このときに「肥後ノ守(ひごのかみ)」とは、いわば若い気力の代名詞だろう。昔の子供はみな、この肥後ノ守という名前の小刀(こがたな)を携帯していた。直接的な用途は鉛筆を削るためなのだが、なにせ小なりといえども刃物なのだから、実にさまざまな場面で活用されたものである。私の場合で言うと、蛙の解剖から野球のバット作りまで、教室の机にイニシァルを刻んだり、茱萸などの枝を伐ったりと、実に用途はバラエティ豊かなものがあった。たまに忘れて学校に行くと、なんだか自分が頼りなく思えたのだから、単なる鉛筆削りの道具以上の意味合いがあったことは確かだ。したがって、上級生くらいになるとときどき砥石で研いでは切れ味を確保することになる。まさに「名刀」扱いだった。でも、喧嘩に使われることは皆無に近かった。それこそ小なりといえどもが、昔の子供には節度を逸脱しないプライドがあったからである。そんなことをしたら、たちまち周囲から軽蔑される環境もあった。このような体験を持っていると、この雨の季節に掲句を吐いた作者の心情は痛いほどによくわかる。ならば「老いる」とは、いたましい存在になるだけなのか。私は私の肥後ノ守を、いま見つめなおしている最中である。いささかの錆は、隠し難くあるような。『夢明り』(2001)所収。(清水哲男)
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