May 18 2005
無職は無色に似て泉辺に影失う
原子公平
季語は「泉」で夏。作者は出版社勤務(戦前は岩波書店、戦後は小学館)の長かった人だから、停年退職後の感慨だろう。「無職」と「無色」は語呂合わせ的発想だが、言われてみれば通じ合うものがある。社会通念としては、定年後の無職は常態であるとはいうものの、当人にしてみればいきなり社会の枠組みから外に出されたようなものなので、虚脱感や喪失感は大きい。ひいてはそれが己の存在感の稀薄さにもつながっていき、軽いめまいを覚えたときのように一瞬頭が白くなって、好天下「泉辺」にあるべきはずの自分の影すらも(見)失ってしまったと言うのである。むろんこれは心境の一種の比喩として詠まれてはいるのだろうが、しかし同時に、ある日あるときの実感でもあったろうと読める。作者とはだいぶ事情が違うのだけれど、私は二十代のときにたてつづけに三度失職した。いずれも会社都合によるものだったとはいえ、無職は無職なのであって、その頼りなさといったらなかった。若かったので「そのうちに何とかなるさ」と思う気持ちと、どんどん減ってゆく退職金に悲観的になってゆく気持ちとが絡み合い、それこそ頭が真っ白になってしまいそうで辛かった。社会や世間の枠組みから外れることが、どんなことなのかを思い知らされた者として掲句を読むと、何かひりひりと灼けつくような疼きを覚える。このときの作者には、停年まできちんと勤め上げたキャリアとは無関係に、無職の現実が重くのしかかっていたのだと思う。『酔歌』(1993)所収。(清水哲男)
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