April 22 2005
春ゆふべあまたのびつこ跳ねゆけり
西東三鬼
昭和十一年(1936年)の句。現代であれば、差別語云々で物議をかもすに違いない。ただし前書きに「びつことなりぬ」とあるから、自分のことも含めて言っているわけで、厳密には差別語が使用されていることにはならないだろう。現今のマスコミではあれも駄目これも駄目と非常に神経質だが、前後の脈絡などは無視して、ただ単語のみに拘泥するのはいかがなものか。意識が甘くとろけるような「春ゆふべ」、見渡せば「あまたのびつこ」がそこらじゅうを次々に「跳ね」て行き過ぎてゆく。そしてここには彼らだけが存在し、他の人は誰もいないのである。しかも「跳ね」ている人たちは嬉々としているようでもあって、ずいぶんと奇妙な幻想空間と言おうか、一種狂的なイメージの世界を描き出している。この情景に、理屈をつけて解釈できないわけではない。完璧な肉体の所有者はどこにもいないのだから、人はみな「びつこ」のようなものなのだなどと……。だが、私はそのように理に落して観賞するよりも、むしろイメージをそのまま丸呑みにしておきたい。丸呑みにすることで伝わってくるのは「春ゆふべ」の咽せるがごとき濃密な空間性であり、そのなかにどっぷりと浸されていることの自虐的な心地よさだろう。急に訪れた身体的不自由を嘆くのではなく、むしろ毒喰わば皿までと開き直れば、狂気の世界に身を沈めたくなる気持ちは奇妙でも不思議でもあるまい。詩人の橋本真理は三鬼句や生涯について「転落を"上がり"とする奇妙な双六を見るようだ」と書いているが、掲句にもよく当てはまっている。『旗』(1940)所収。(清水哲男)
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