April 0942005

 俳諧はほとんどことばすこし虚子

                           筑紫磐井

季句。私の理解として、句の「俳諧」は「(現代)俳句」と同義だと読んでおく。口うるさく言えば「俳句」は「俳諧の発句」の独立したものだから、同義ではないけれど、句意からして、作者はそれこそ「ほとんど」同義としていると思われる。有季定型句への痛烈な皮肉だ。そう読む人も多いはずだが、ここには皮肉を越えて俳句表現の根底に関わる真摯な問題意識が含まれていると読めた。ヘボ句しかできない私を含めて、多くの有季定型句詠みは、こう言われてしまうとグウの音も出ないからだ。簡単に言ってしまうと、私なら私が自作を「句になった」と思うとき、その「なった」という根拠はたいていが「虚子すこし」というところに依存しているのではあるまいか。逆に、「ほとんど言葉」において「なった」という意識は稀薄だろう。つまり虚子的なるもの、予定調和的に働く季語だとか、あるいは花鳥諷詠の境地だとかに寄りかかってはじめて「なった」と感じているのではないか。したがって、このときに「ほとんど言葉」はどこかに置き去りになってしまう。でも、自己表現を自立させるためには、「虚子すこし」を担保にしては駄目なのだ。戦前の新興俳句や戦後の社会性俳句は、まさにこの点に着目して虚子を否定したのだったが、いつしかまたぞろ虚子を保険にしたような俳句が跋扈している。楽しみで詠めるのも俳句の良いところではあるけれど、その楽しみは可能な限り自分の言葉で語ってこそである。私たちはこのあたりで、「句になった」と判断する自分の物差しを疑ってみる必要がありそうだ。舌足らずに終わってしまうが、詳細については他日を期したい。現代俳句協会編『現代俳句歳時記・無季』(2004)所載。(清水哲男)




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