March 19 2005
春愁やとろとろ茹でる石つころ
八木忠栄
季語は「春愁」。明るく浮き立つ気分になる春だが(だからこそ)、ふっと謂れなき愁意を覚えることがある。はっきりとした憂鬱ではなく,あてどない物思いという感じだ。何でしょうかね,この哀感とは。掲句は、こうした質問に対する一つの解答のようにも読めるが,しかしそうではあるまい。やはり作者も「何でしょうかね」と首を傾げているのではなかろうか。つまり、「春愁」とは「石つころ」を茹でるようなものだと言っているのではないだろう。一見そのようにも思えるのは「とろとろ」という修辞のせいであって、しかしこの場合に「春愁」と「石つころ」とは何の関係もないのである。「とろとろ」をよく読むと,石っころを茹でる状態を言っていると同時に,実は「春愁」の状態にも掛けられている。本来無関係な両者が,この「とろとろ」で結びつけられているのだ。ここらへんが俳句表現の妙味だろうが、ここに着目することによって、作者の「何でしょうかね」がそれこそ「とろとろ」と浮き上がってくる仕掛けだ。作者はあるとき,不意に哀愁にとらわれた。が、それは決して暗いばかりのそれではない。どこかに、むしろほのかな甘美感も漂っている。その「とろとろ」した思いのなかで,「とろとろ」と石っころを茹でている。でも、異物を茹でているという意識は全くない。当然のように,ごく自然なこととして茹でている。何故,このようなことが自分に起きているのか。そんな疑問すら抱かせない「春愁」とは、いったい「何でしょうかね」。「俳句研究」(2005年4月号)所載。(清水哲男)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|