January 08 2005
枯野ゆく徒手空拳も老いにけり
吉田汀史
季語は「枯野」で冬。若い人が読むと、「枯野」と「徒手空拳」は付き過ぎ、あるいは出来過ぎと感じるかもしれない。いや、そう読むのがむしろノーマルだろう。なぜなら、若い人は病者を除いて、本当の意味での「徒手空拳」がわからないからである。つまり、日常的に自分の身体のありようを意識することがほとんどないからなのだ。したがって、他に何物をも持たず我が身一つをたのむという「徒手空拳」を、身体よりも気概に重きを置いて理解する。ところがある程度の年輪を重ねてきた人は、逆に身体に重きを置く。そうせざるを得ない。身体の老いの自覚は日常的になり、それだけ孤独感も深まってくる。字義どおりの「徒手空拳」で生活をつづける身にとっては、もはや「枯野ゆく」の孤独も比喩というよりは実感に近いのである。作者に比べれば、私などはまだまだ若造でしかないけれど、だんだんこういう句が見逃せなくなってきた。話は少しねじれるが、若者にとって最も理解し難い老人の欲望の一つに名誉欲がある。むろん掲句とは無関係の一般論だが、一円にもならない何とか褒章などを欲しがったりする人がいる。理由は単純で、要するに徒手空拳であることが恐いのだ。褒章というメディアで世の中ともう一度つながることにより、「枯野」から脱け出して、我が身一つではないことを確認したいがためである。この心情を良く知っている国家とは、しかし何と狡猾なことか。俳誌「航標」(2005年1月号)所載。(清水哲男)
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