プーチンもブッシュも荒っぽい武力制圧がいっそう反勢力を強化することに気づかない。




2004年9月2日の句(前日までの二句を含む)

September 0592004

 銀シャリてふ眩しき死語や今年米

                           岡田飛鳥子

語は「今年米」で秋。新米のこと。「死語」と言われれば、なるほど「銀シャリ」という言葉が聞かれなくなって久しい。「シャリ」は今でも鮨屋が使うが、一般的には特別に「銀」を冠する理由がもはや無くなってしまったからだ。しかし作者は、新米の季節になる度にこの言葉を眩しく思い出し、同時に隔世の感に茫となるのである。それほどに、何も混ぜていない米だけで炊き上げたご飯への渇望は、とりわけて戦中戦後に強かった。このことについての私の体験は何度も書いたので、今回は弦書房(九州)のサイトにある原弘「昭和の子」というコラムから、該当部分の一部を引用しておく。「玄関横の六畳間に新婚の映写技師夫婦が間借りすることになった。映画は戦後の最大の娯楽だった。どこの映画館も、どんな作品がかかっても超満員のようで、当時の映写技師は格段に羽振りがよかった。『支配人や館主よりも映写技師が威張っている』と言われる時代だった。/日暮れ時、表で遊んでいると、その映写技師の六畳間から銀シャリの炊ける何とも言えない香ばしいかおりが流れてきた。空腹と銀シャリへの憧れを抱いていた僕は、その香りに吸い寄せられるようにたまらず勝手知ったる映写技師の部屋に忍び込んでいた。/電熱器のうえの鍋では、ご飯が炊きあがったばかりのようで、部屋中に香ばしいかおりが充満していた。気がついたときには手近の杓子で、顔にまとわりつく湯気を払いのけるようにしてまじっりっ気のない真っ白いご飯をすくいとって口にしていた。/しかし、久しぶりに味わった銀シャリの味は記憶にない。一瞬後、自分のやったことに気づいて愕然とし、僕はあわてて逃げだした。……」。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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