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July 1372004

 寝ころぶを禁ず寺院の夏座敷

                           田宮真智子

語は「夏座敷」。句を読んで、ふと京都嵐山の禅寺・天龍寺の大方丈を思い出した。四十八畳敷きという広さだ。学生時代に一人で気まぐれに訪ねて、しばし寝ころんでいたことがあった。たしか暑い盛りだったと思うが、観光客の影も見えず、まさに唯我の境。あまりにも気持ちがよかったので、もう一度あそこで寝ころんでみたいと思いつつ、果たせずに四十数年が経ってしまっている。でも、もう駄目だろうなあ。句のように、おそらくは「寝ころぶを禁ず」となっているに違いない。お寺さんも、近年は野暮になってきた。拝観料という名の入場料は取るし、撮影は禁止とくるし、あれしちゃいけない、これもいけないと、こんなのはみな仏の道に反するのではあるまいか。寝ころぶなどは、禁じなくともよいのではないか。何か不都合があるのかと考えてみたが、思い当たらない。寝ころぶどころか昼寝をしたい人がいれば、自由にさせてあげる。それくらいの広い心がなくて、なんの「寺院」だろう。作者は別にいきどおっているわけではないけれど、この寺のたたずまいなどを詠まずに貼り紙を詠んだところに、寺側の現世への俗な執着をうとましく思う気持ちが滲んでいる。せっかくの広々とした「夏座敷」のすずやかな印象も、一枚の貼り紙で減殺されてしまった。現代ならではの皮肉を含んだ句だが、そんな現代が作者とともに恨めしい。『小鳥来る』(2004)所収。(清水哲男)


June 2962005

 夏座敷対角線に妻のゐて

                           岡本久一

語は「夏座敷」。元来の意味は襖、障子などを外して、風通しをよくし、夏向きの家具、調度を置いた座敷のことだ。現代の家では、窓を広く開け放ったりして、風の通りをよくした部屋くらいの感じが適当だろう。実際にはさして涼しくなくても、外気との触れ合いによる開放感から涼味を覚えるのである。掲句はそんな座敷か部屋で、妻と二人でくつろいでいるところか。一つの机を挟んで、妻と作者は対角線上にいる。このときに二人が最も近くなる場所は隣り同士であり、次が正面に向き合う位置であり、いちばん遠いのが対角線上だ。つまり、二人はいちばん遠いところに坐っているわけだが、べつに互いが意識してそうしているのではない。長年の結婚生活のなかで、ごく自然にそうなってきたのだ。句の「対角線」は、だから二次元的な距離の遠さを表すよりも、むしろ三次元的な二人での生活時間の長さを言っている。隣り同士から対角線上まで過ごしてきた時間……。これを再び二次元化すると、思えば遠くまで来たものだという感慨につながる。窓からの風も心地よい。俗に「遠くて近きは男女の仲」と言うけれど、ならば「近くて遠きが夫婦の仲」なのか。なあんて、混ぜっ返しては作者に失礼だ。へぇ、お後がよろしいようで。有楽町メセナ句会合同句集『毬音』(2005年5月)所載。(清水哲男)


June 2362008

 いつせいに子らゐなくなる夏座敷

                           金子 敦

戚一同が集まっての法事の座敷だろうか。私にも何度も体験はあるが、故人にさして思い入れがない場合には、ゆっくりと進行する決まりごとに、大人でもいらいらするときがある。ましてや子供にとっては退屈千万。窓の外は日差しが強く、室内が明るいだけに、余計に苛々してしまうのだ。それでも神妙なふりをして坊さんの読経などを聞いているうちに、やっと式次第が終了し、さあ子供は外で遊んできてもいいよということになる。むろん、しびれをきらしていた子供らはまさに「いっせいに」外に出て行ってしまう。残る子なんて、いやしない。なんということもない情景ではあるけれど、この句は実は大人も同時に解放された気分が隠し味になっているのであって、そこらへんが実に巧みに詠まれている。余談めくが、しかし何かとわずらわしい子供らがこういう場所に集まることそれ自体が、この親族一同にとっての盛りの時期だったことが、後になるとよくわかってくる。少子化ということもあり、こんな情景も今ではなかなかお目にかかれなくなってきているのかもしれない。『冬夕焼』(2008)所収。(清水哲男)


June 2562009

 夏座敷父はともだちがいない

                           こしのゆみこ

年梅雨が終わると、祖母は座敷の襖を取り払って簾を吊り下げた。すっかり片づいた座敷の真ん中を涼しい風がさぁっと吹き抜けてゆくのはいかにも夏らしくて気持ちがよかった。夏座敷や打ち水といった季節の風物と縁遠いマンション暮らしの今は、思い出のなかにある風景を懐かしんでいる。そんな夏座敷の真ん中に父が一人で座っている。「父は」と言っているところからそれぞれに友達がいるほかの家族と比べているのだろう。おしゃべりな母はご近所の人たちと、かしましい娘たちも友達とたわいもない話に興じながら日々を暮らしているのかもしれない。寡黙な父はそれを羨むでもなく、一人でひっそり静かな日常を過ごしているのだろう。風通しの良い夏座敷が父の孤独をくっきりと印象付けている。「昼寝する父に睫のありにけり」「蜻蛉にまざっていたる父の顔」など、家族の中で少し寂しげだけど、かけがえのない父の姿を愛情を持って描き出している。『コイツァンの猫』(2009)所収。(三宅やよい)


May 1752013

 夏座敷母と見知らぬ人のおり

                           西橋朋子

の句の仕掛けは同性としての母に感じる性的な匂い。それを読者に暗示するところにある。それ以外の表現の動機は考えにくい。そこが魅力。父だと会社の同僚でも来ているのか、そんなのは面白くもなんともない。母だからいいのだ。母に客があってたとえば同性のほんとうに只の「見知らぬ人」だったとしたら作者は何を言いたくて書いたのか不明になる。そんな只事のどこに「詩」を見出せようか。まさか座敷ワラシでもあるまい。同じ趣旨の寺山修司の句に「暗室より水の音する母の情事」がある。これを読んだ寺山の素朴なお母さんが怒ったという逸話があったような。俳句はもちろんフィクションでかまわないが寺山のように書くと仕掛けが顕わになる。これみよがしと言ってもいい。「見知らぬ人のおり」ぐらいが俳句性との調和かもしれない。情事なんていうよりもこちらの方がもっと淫靡な感じもある。『17音の青春2013』(2013)所載。(今井 聖)


May 2152013

 万緑のなかを大樹の老いゆけり

                           佐藤たけを

歩コースにある鬼子母神の大銀杏は、黄落はもちろん見事だが、この時期の姿もことのほか美しい。幹はいかにも老樹といった風格ではあるが、その梢から無数に芽吹く若葉青葉は若木となんら変わりなく瑞々しく光り輝く。万緑には圧倒されるパワーを感じるが、掲句によって、その雄々しく緑を濃くする新樹のなかに老木も存在することにあらためて気づかされる。屋久杉やセコイヤなどの木の寿命は数千年に及ぶというから、100歳で長寿という人間から見ればほとんど不老不死とも思える長さだ。鼠も象も一生の心拍数は同じといわれるが、もし大樹に鼓動があるとしたら、どれほどゆっくりしたものになるのだろうか。今度幹に手のひらを当てるときには、きっとゆっくりと打つ心音に思いを馳せることだろう。青葉若葉に彩られ、大樹はまたひとつ、みしりと樹齢を重ねてゆく。〈一斉に水の地球の雨蛙〉〈うつくしき声の名のりや夏座敷〉『鉱山神』(2013)所収。(土肥あき子)


July 2672016

 おまへだつたのか狐の剃刀は

                           広渡敬雄

前に特徴のある植物は数あれど、「キツネノカミソリ」とはまた物語的な名である。由来は細長い葉をカミソリに見立てて付けられたというが、そこでなぜキツネなのか。イヌやカラスはイヌタデやカラスムギなど役に立たないものの名に付けられる例が多いが、キツネは珍しいのではないか、と調べてみると結構ありました。キツネアザミ、キツネノボタン、キツネノマゴ、キツネノヒマゴとでるわでるわ。犬や鴉同様、狐も日本人に古くから馴染みの動物だったことがわかる。そして、カミソリやボタンなど、人間に化けるときに使うという見立てなのかもしれない。掲句は幾度も見ていた植物が、名だけを知っていた思いがけないものであったことの驚き。出合いの喜びより、ささやかな落胆がにじむ。〈腹擦つて猫の欠伸や夏座敷〉〈間取図に手書きの出窓夏の山〉『間取図』(2016)所収。(土肥あき子)




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