昼寝の快適な季節になった。30分程度が適当。それ以上だとだるくなる。諸兄姉は?




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July 0372004

 手花火や再従兄に会はぬ二十年

                           片山由美子

語は「(手)花火」で夏。夏の風物詩と言われるものも、だんだんに姿を消しつつあるが、花火だけは昔と変わらず健在だ。我が家でも孫がやってくると、水を入れたバケツを用意して、近所のちっぽけな公園で楽しむ。作者は通りがかりにそんな光景を見かけたのか、あるいは自分で楽しんでいるのか。闇に明滅する火の光りを見ているうちに、ふと長い間会っていない「再従兄(はとこ)」のことを思い出した。昔はいっしょに花火でよく遊んだものだが、数えてみると会わなくなってからもうかれこれ二十年も経ってしまった。元気にしているだろうか。花火には、そんな郷愁を誘うようなところがある。二十年という歳月感覚は微妙で、三十年ならば完全に疎遠になっているということだし、十年ならばまだ交際が切れているとは言えないだろう。しかし二十年くらいの隔たりだと、あまり思い出すこともなくなるが、思い出しても、このまま一生会うことがないかもしれぬと淋しくなったりする。そのような微妙な感覚が、手花火の光りのはかない生命によく照応している。ところで、再従兄は親が従兄同士である子と子の関係を指す。またいとこ、とも。はじめからかなり遠い親戚筋の関係にあるわけで、親の親戚付き合いがよほどこまめでないと、なかなか再従兄同士が知り合う機会は得られない。私の場合を考えてみたが、それと自覚して再従兄に会ったことはないと思う。再従兄どころか従兄にすら、三十年も前の叔父の法事の席で会ったのが最後になっている。遠い親戚より近くの他人。昔の人はうまいことを言ったものだ。「俳句」(2004年7月号)所載。(清水哲男)




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