六月も今週でおしまい。地球の自公転が早くなったんじゃないかと馬鹿なことを思う。




2004ソスN6ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2862004

 志ん生も文楽も間や軒忍

                           藤田湘子

語は「軒忍(のきしのぶ)」で「釣忍(つりしのぶ)」のことだと思うが、京都言葉で軒忍といえば里芋の茎、いわゆる「ずいき」を指す。芋茎を軒に吊るして干したことからだろうか。しかし、句の場合は食べ物だと、それこそ「間(ま)」が抜けてしまう。夏の季語だ。古今亭「志ん生」の五代目は明らかだとして、桂「文楽」は先代の八代目だろう。この人、本当は数えて六代目のはずが、「六」よりも「八」のほうが末広がりで縁起がいいやと勝手に八代目におさまってしまった。で、次を継いだ文楽はしかたなく九代目に。作者は二人の芸の魅力を思い返してみて、むろんいろいろと要因はあるけれど、とどのつまりは「間」に尽きる。他の噺家に抜きん出ていたのは、そこが一番だろうと納得している。目には涼しげな軒忍が写っていて、江戸前の噺家の思い出とよく釣り合う。更に一理屈こねておけば、軒忍は暑中に置くささやかな心理的句読点、すなわち生活の「間」のような役割を果たしているだろう。言わでものことだが、現代人はおおむね早口である。したがって、話し言葉にほとんど「間」というものがない。話すとなると、何かにせっつかれたように、次から次へと言葉を繰り出していないと安心できないのである。かといって、立て板に水の話し方ともまた違う。好調時の黒柳徹子や久米宏のようだったら立て板に水と言えるが、そうではなくて、話す中味とバランスの取れない早さなのだ。この二人には、早口のなかにも中味に釣り合った緩急の「間」というものが、微妙ながらにもちゃんとある(ついでに言えば、古館伊知郎の早口にはそれがあまりない)。「間」とは、話の力点や筋道を指し示す無言の指示言語みたいなものだろう。これを欠いた話し言葉が、その分だけ痩せていくのは当然である。俳誌「鷹」(2004年7月号)所載。(清水哲男)




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