どうやら梅雨が戻ってきましたね。ぎりぎりまで選挙カーは来ないし、静かな土日に。




2004ソスN6ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2662004

 高階や扇子たれかを待つうごき

                           大塚千光史

気なく見上げた「高階」の人。高層の団地かマンションあたりでのことだろう。高くて顔はよく見えないけれど、佇んでしきりに「扇子」を使っている。べつに訝しく思ったわけではないが、使い方にどこか苛々しているような「うごき」がある。ああそうか、きっと誰かを待っているんだなと納得した句だ。誰にでも日常的に、こんなふうに些細なシーンの意味を納得することはあるにしても、それを句に書きとめるのはなかなかに難しいだろう。上手いものだ、達者なものである。この場合、作者に詠まれた人は作者の目を意識してはいない。が、逆に他人の目を意識したときに、しばしば私たちは自分の「うごき(しぐさ)」でその人にメッセージを送る場合がある。訝しく思われるかもしれないという思いが、頼まれもしないのにそうさせるのだ。昨日の午後、マンションの出口のところに住人の主婦が何をするでもなくぽつんと立っていた。足音で私に気づいた彼女は、それまでの所在ない姿から一転し、盛んに首を伸ばしては遠くの十字路の方を見やりだしたのである。つまり、私はここで誰かを待っているのですよというメッセージを私に発信しはじめたわけだ。会釈して通りすぎようとしたときに、私たちの前には豆腐屋の小さな車がすうっと現れて止まったのだった。主婦が待っていたのは、これである。「遅いじゃないの」という弾むような彼女の声。なんだかアリバイが証明された人みたいな調子に聞こえて、可笑しかった。もしも句の「高階」の人が作者に気づいたとしたら、他にどんな「うごき」を加えだろうか。つい、そんなことにまで連想を伸ばしてしまった。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)




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