朝日に映える青葉は美しい。毎朝の楽しみだ。それもしばらくお別れか。梅雨兆す。




2004ソスN6ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 0562004

 昼顔につき合ひ人を待つでなく

                           林 朋子

語は「昼顔」で夏。野山や路傍、どこにでも咲いている。薄紅の花の色は可憐だが、あまりにも咲きすぎるせいか、珍重はされないようだ。句は、わざわざそんな「昼顔」につき合って、誰を待つでもなく道端に佇んでいる。といっても実際に路傍に立っているのではなくて、夏の午後のけだるい時間をシンボリックに詠んだのだろう。なるほど、けだるさには昼顔がよく似合う。この句を読んで、ちょっと思うことがあった。実景ではないと読んだけれど、仮に実景だとすれば、作者以外にはどんな光景に写るだろうかということだ。想像するだけで、なんとなく奇異な様子に見えるのではないだろうか。まさか昼顔につき合っているとは知らないから、道端に人がひとり何をするでもなく長い時間立っていれば、ついつい変に思ってしまうのが人情だからである。最近よく散歩をするようになって気がついたのは、いかにこの人情なるものが散歩者の気分を害するかということだった。天下の往来である。走ろうが立ち止まろうが当人の勝手のはずが、そうじゃない。歩き疲れてしばし佇んでいるだけで、必ずどこからか猜疑という人情のまなざしが飛んでくる。立ち話をしている主婦たちの目が、ちらちらとこちらを伺っていたりする。そんなときには仕方がないから、しきりに腕時計を見るふりをすると、多少は猜疑の目も和らぐようだ。携帯電話は持っていないが、こんなときにはさぞかし便利だろう。ともかく、人通りのない山道ででもないかぎり、人は道で一分と動かずに立っていることはできない。堂々と立ち止まれるのは、ゆいいつ信号のある交差点だけである。嘘だと思ったら、どうかお試しあれ。『眩草』(2002)所収。(清水哲男)




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