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May 2552004

 甚平や概算という暮し方

                           小宅容義

語は「甚平(じんべい)」で夏。薄地で作った袖無しの単衣。仕事着やふだん着に使う。私は持っていないが、素肌に着ると涼しそうだ。掲句について、作者は「年を取った一人暮しは全く自堕落という外はない。命までもだ」と言っている。自嘲であるが、ざっくりと甚平を着ていると「自堕落」ぶりが助長されるような気持ちになるのだろうか。たしかに、身体の一部を多少とも締めていないと気持ちのゆるみは出てくるだろうが……。「概算」は、今風に言えば「アバウト」の意だろう。大雑把というよりも、いい加減というニュアンスに近い。何事につけ、投げやりになる。いい加減に放っておきたくなる。誰に迷惑をかけるわけじゃなし、面倒だから適当に放置しておく。そしてこの姿勢が高じてくると自虐的になり、自嘲の一つも出てくるようになる。アバウトな「暮し方」に、私は若いころには憧れた。呑気でいいなあと、無邪気に思っていたからである。ところがだんだん年を取ってくると、他人の目にはどう写るかは知らないが、物事をアバウトに処することはかなり苦しいことだとわかってきた。心身が衰えてきたせいで、諸事に面倒を感じるようになり、つい手を抜く。抜きたくなる。豪儀な手抜きではないのだ。じりっじりっと、社会との接点や付き合いのレベルを下げていかざるを得ない。この自覚は、苦しいのだ。楽ではない。作者の自嘲も、おそらくはそのふたりに根があるのではないのかと、他人事とは思えない。実は甚平は前から欲しかったのだけれど、ずいぶんとヤバそうだ。止めとこう。「俳句」(2004年6月号)所載。(清水哲男)


June 2162009

 甚平ややがての日まで腕時計

                           遠藤梧逸

語は「甚平」、夏です。言葉としては知っており、もちろんどんなものかも承知していますが、持ってはいません。人間ドックに行ったときに、似たようなものを着たことがあるだけです。たぶん一生、着ることはありません。特に甚平を毛嫌いする理由があるわけではありません。しかし、全体から感じられる力の抜け方に、どうも違和を感じるのです。そんなに無理してリラックスなどしたくないと、思ってしまうのです。今日の句の中で甚平を着ている人も、だいぶ力が抜けています。おそらく老人です。若い頃にさんざん緊張感に満ちた日々をすごした後に、恩寵のように与えられたおだやかな老後を過ごしているようです。腕時計をしているから、というわけではないけれども、その穏やかな日々にも、時は確実に刻まれ、ゆくゆくは「やがての日」にたどり着きます。この句、読み終えた後でちょっとつらくもなります。「甚平」というよりも、残る歳月をゆったりと羽織っている、そんな感じがしてきます。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


May 0852015

 口あけて顔のなくなる燕の子

                           大串若竹

は春に渡来して人家とか駅舎とか商店街の軒先とかに巣を作って産卵し育て、秋には南方に去る。その尾は長く二つに別れた、いわゆる燕尾である。人間に寄り添って巣を作るので燕の子にも一段と親しみを覚える。毎日その成長を見上げては楽しんでいるのだが、子は四五匹ほど居るので生存競争も激しそうだ。精一杯口をあけて顔中を口にして、親鳥の餌をねだる。ねだり負ければ成長に負ける事になる。それを見上げる人間も口をいっぱいに飽けて眺める事とはなる。<風鈴の百の音色の一つ選る><甚平やそろばん弾く骨董屋><母の日に母に手品を見せにけり>なども所収される。『風鈴』(2012年)所収。(藤嶋 務)




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