March 2232004

 春愁を四角に詰めて電車かな

                           津田このみ

今の鳥インフルエンザ騒動の映像で、ぎゅう詰めにされて飼われている鶏たちを見て、哀れと思った人は少なくないだろう。では、人間は彼らよりも哀れではないのかといえば、そうはいかない。ここに心ある鶏がいるとして、満員電車にぎゅう詰めになった人間どもを眺めたとすれば、やはり同じように哀れをもよおすはずである。しかも現在の養鶏法の歴史はたかだか半世紀なのであり、満員電車のそれよりもはるかに短いのだ。ぎゅう詰めの歴史は、人間のほうがだんぜん先行してきた。電車を開発した目的は、いちどきに大勢の人間の労働力を一定の場所に集結することにあった。べつに、観光や物見遊山などのために作った乗り物ではない。それは現今の鶏舎と同じように、ひたすら生産効率のアップに資するための設備なのである。だから電車にとっては、どんな人間もみな同価値なのであって、乗っている人間個々の思想信条や才能才質、感性感情などには頓着することはない。とにかく、つつがなく大量の労働力をA地点からB地点まで運ぶことによって、役割と任務はめでたく完了する理屈だ。掲句は、そんな電車の論理を踏まえたうえで、人間を労働とはまた別の視点から捉えて詠んでいる。「春愁」というつかみどころのない個々人ばらばらな心情を、電車がまとめて「四角に詰めて」走っている姿は、当の電車のあずかり知らぬところだから、句に可笑しみが感じられるのだ。朝夕と、今日も満員電車は元気に走りつづけるだろう。その満員電車に乗り込んで、この句を思い出す人がいるとすれば、句にとっては最良の環境で最良の読者を得たことになるのだと思う。『月ひとしずく』(1999)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます