March 1432004

 春風のどこでも死ねるからだであるく

                           種田山頭火

者には「風」の句が多い。このことに着目した穴井太は、ユニークな視点から「風になった男」という山頭火論を書いている。ユニークというのは、穴井が「風」という漢字のなかに何故「虫」がいるのかと考えるところからはじめた点だ。「そこで、虫を住まわせている風の語源を探ってみた。いわく『風の吹き方が変わると虫たちが生まれてくる』という。つまり風は季節や時間の動きと同義であった。/言いかえれば、風は自然の生成流転や生命時計の役割を荷っていることになる。だから風のなかにいる虫は、花やすべての生きものたちの代表として、生命あるものを象徴しているのではあるまいか」。ブッキッシュな考察に過ぎると言われればそれまでだが、こと山頭火の句に関しては、この虫の居所からほとんど説明が可能となるのだから面白い。つづいて穴井は「虫が好かない」「虫が好い」などの虫を使った成語を考察し、「科学的な根拠は乏しく、人間の心の感情を指している」ことに注目する。意よりも情、理よりも狂というわけだ。そして「それが生命感を発動するエネルギー源であることは間違いない」と断じ、山頭火の風の句を解釈していく。腹の虫、酒の虫から漂泊の虫、絶望の虫までを持ちだしてみると、なるほど山頭火という男が、要するにその場そのときの虫の居所によって、やたらと句を吐き出していたことがよくわかる。私に言わせれば我がまま三昧の句境であり、掲句などには悟りの虫よりも、「まだ死にたくない、死ぬはずがない」という虫の好い思いが見え隠れしていて、好きになれない。流転の身は、一見中世の隠者に似ていなくもないが、俗世との縁をむしろ結びたがっているところは醜悪にすら写る。山頭火ファンには申しわけないけれど、妻子を放擲してまで詠むような句でもないだろう。(清水哲男)




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