March 0332004

 雛の日の鱗につつむ死もありぬ

                           吉田汀史

語は「雛の日(雛祭)」。その命すこやかにと、女の子の息災を祈って行われる行事だ、桃の節句とも言われるように、春開花の季節のはなやぎが行事の本意によくついて色を添える。そのはなやぎの中にあって、しかし作者のまなざしは同時に、どこか遠くの海での孤独な命の終焉に向けられている。「鱗(うろこ)につつむ死」とは魚のそれであるが、単に「魚の死」と言うよりも、「死」をより生々しいものとして読者に訴えかけてくる。鱗がつつんでいるのは、もはや魚とは言えない存在である。それを「死」そのものでしかないと掴んだときに、雛の日のはなやぎの中に、あたかも実体のように「死」は突きだされたのだ。古来、はなやぎの中にさびしさを見出すという感性は珍しくはないけれど、掲句のようにさびしさの根拠を明確に、いわば物質的に指示した例は珍しいと言えよう。しかも作者は、漠然たる思いつきで海での死を思い描いたのではない。雛の日を終えた雛たちは、やがて女の子の命と引き換えに、海の彼方へと流されてゆく運命にある。流し雛。すなわち両者はそれぞれの死を媒介にして、海中で出会うのである。句は、そういうことを暗示している。何というさびしさだろうか。同じ作者に「わが父の舟とゆき逢へ流し雛」がある。まるで子供みたいな発想だと、笑うこと勿れ。「わが父」がこの世の人ではないと理解するならば、夢まぼろしの世界でしか実現しない願いを、作者は「鱗につつむ死」同様に実体化したいのだと気がつく。祈りとは、そういうものだろう。かつて能村登四郎は、作者の特質を「現実のものを夢幻の距離で眺めて詠む」ところにあると言った。至言である。『浄瑠璃』(1988)所収。(清水哲男)




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