February 2622004

 東京の春あけぼのの路上の死

                           加藤静夫

京論として読むと、さしたる発見があるわけではない。「東京砂漠」なんて昔の歌もあるくらいで、この大都会の索漠たる状況は多く掲句のように語られてきた。この種の東京認識は、もはや常識中の常識みたいなものだろう。にもかかわらず、この句が私を惹きつけるのは何故だろうか。結論から言ってしまえば、この句は東京論なのではなくて、東京に代表される現代都市の「あけぼの」論だからである。それこそ常識中の常識である「春(は)あけぼの」の持つイメージの足元を、末尾の「路上の死」がまことに自然なかたちですくっていて、そこに新鮮さを覚えるからなのだ。作者の眼目は、ここにある。つまり、句が指さしているのは大都会の孤独な死ではなく、その死が象徴的に照り返している今日的な自然のありようなのである。「春あけぼの」の下の東京の孤独死の悲劇性を言っているのではなく、「路上の死」の悲劇性から現代の「あけぼの」は立ち上がってくると述べている……、とでも言えばよいだろうか。その意味で、この句は社会詠ではなくて自然詠と受け取るべきだ。早起きの私は我が家のゴミ当番なので、あけぼの刻に集積所までゴミを運んでいく。そうすると、まさか孤独死まで連想は届かないが、なんだかそこに積まれたゴミの山から、早朝の光りをたたえた空や大気が生まれてきたような感じがする。別に神経がどうかしたということではなく、実感として素直にそう感じている自分に気がつく。そしてこのときに、ゴミの山から孤独死までの距離はさして遠いものではないだろう。私にはそんな日常があるので、余計に掲句に魅かれ、このような解釈になったのだった。俳誌「鷹」(2004年1月号)所載。(清水哲男)




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