February 1522004

 弁当を分けぬ友情雲に鳥

                           清水哲男

こかに書いたことだが、もう一度書いておきたい。三十代の半ばころ、久しぶりに田舎の小学校の同窓会に出席した。にぎやかに飲んでいるうちに、隣りの男が低い声でぼそっと言った。「君の弁当ね……」と、ちょっと口ごもってから「見たんだよ、俺。イモが一つ、ごろんと入ってた」。はっとして、そいつの横顔をまじまじと見てしまった。彼は私から目をそらしたままで、つづけた。「あのときね、俺のをよっぽど分けてやろうかと思ったけど、でも、やめたんだ。そんなことしたら、君がどんな気持ちになるかと思ってね。……つまんないこと言って、ごめんな」。食料難の時代だった。私も含めて、農家の子供でも満足に弁当を持たせてもらえない子が、クラスに何人かいた。イモがごろんみたいな弁当は、私一人じゃなかったはずだ。当時の子供はみな弁当箱の蓋を立て、覆いかぶさるよにして、周囲から中身が見えないように食べたものである。粗末な弁当の子はそれを恥じ、そうでない子は逆に自分だけが良いものを食べることを恥じたのである。だから、弁当の時間はちっとも楽しくなく、むしろ重苦しかった。食欲が無いとか腹痛だとかと言って、さっさと校庭に出てしまう子もいた。私も、ときどきそうした。粗末な弁当どころか、食べるものを何も持ってこられなかったからだ。何人かで校庭に出て、お互いに弁当の無いことを知りながら、知らん顔をして鉄棒にぶら下がったりしていたっけ。そんなときに、北に帰る渡り鳥が雲に入っていった様子が見えていたのかもしれないが、実は知らない。でも、私の弁当のことを気遣ってくれた彼の友情を知ったときに、ふっと見えていたような気になったのである。『打つや太鼓』(2003)所収。(清水哲男)




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