February 0822004

 梅林やこの世にすこし声を出す

                           あざ蓉子

思議な後味を残す句だ。空気がひんやりしていて静かな「梅林」に、作者はひとり佇んでいる。一読、そんな光景が浮かんでくる。さて、このときに「すこし声を出す」のは誰だろうか。作者その人だろうか。いや、人間ではなくて、梅林自体かもしれないし、「この世」のものではない何かかもしれない。いろいろと連想をたくましくさせるが、私はつまるところ、声を出す主体がどこにも存在しないところに、掲句の味が醸し出されるのだと考える。思いつくかぎりの具体的な主体をいくら連ねてみても、どれにも句にぴったりと来るイメージは無いように感じられる。すなわち、この句はそうした連想を拒否しているのではあるまいか。何だってよいようだけれど、何だってよろしくない。そういうことだろう。すなわち、無の主体が声を出しているのだ。これを強いて名づければ「虚無」ということにもなろうが、それもちょっと違う。俳句は読者に連想をうながし、解釈鑑賞をゆだねるところの大きい文芸だ。だからその文法に添って、私たちは掲句を読んでしまう。主体は何かと自然に考えさせられてしまう。そこが作者の作句上のねらい目で、はじめから主体無しとして発想し、読者を梅林の空間に迷わせようという寸法だ。そして、その迷いそのものが、梅林の静寂な空間にフィットするであろうと企んでいる。むろん、その前に句の発想を得る段階で、まずは作者自身が迷ったわけであり、そのときにわいてきた不思議な世界をぽんと提示して、効果のほどを読者に問いかけてみたと言うべきか。作者はしばしば「取りあわせによって生じる未知のイメージ」に出会いたいと述べている。句は具体的な梅林と無の主体の発する声を取りあわせることで、さらには俳句の読みの文法をずらすことで、たしかに未知のイメージを生みだしている。梅林に入れば、誰にもこの声が聞こえるだろう。『猿楽』(2000)所収。(清水哲男)




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