February 0722004

 橋わたりきつてをんなが吐く椿

                           八木忠栄

語は「椿(つばき)」で春。幻想的にして凄艶。凄絶にして艶麗。伝奇小説の一シーンのようだ。このときに「をんな」は、もちろん和装でなければならない。橋をわたるとは、しばしば逃亡、逃避行のイメージにつながり、わたろうと決意するまでの過程を含めて、息詰まるような緊張感をもたらす。虹の橋をわたるのではないから、わたった対岸に明るい望みがあるわけではない。しかし、何としてもわたりきらなければ、無残な仕打ちにあうのは必定だ。たとえばそんな状況にある「をんな」が、極度な不安の高まりを抑えつつ、ついに「わたりきつて吐く椿」。緊張感が一挙にほどけたときの生理現象であり、血を吐いたかと思いきや、ぽたりと真紅の椿を吐いたところで句になった。こらえにこらえていたものが胸から吐かれるときは、血のようにぱあっと四散するのではなく、あくまでも椿のようにぽたりと落ちるのである。そして作者は、椿の落花のように吐かれた精神的痛苦を指して、椿そのものが吐かれたと見た。橋の袂に白い雪が残っていれば、ますます幻想度は高まる。悲哀感も増してくる。やがて「をんな」が立ち去ったあとには、周辺に椿の木もないのに、花一輪だけがいま落ちたばかりの風情で生々しく残されている。何も知らずに通りかかった人は、狐にでも化かされたのではあるまいかと首をひねるかもしれない……。などと掲句は、読者のいろいろな想像をかきたてて止まるところがない。ただし、どんなに突飛な幻想でも、どこかに必ず現実的な根拠を持っている。だとすれば、掲句の発想を得た現実的根拠とは、どんなものだったのだろうか。そんなことまで考えさせられた。『雪やまず』(2001)所収。(清水哲男)




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