February 0322004

 大根擂る欲望なんてあるにはある

                           永島理江子

語は「大根」で冬。作者は、大根を擂(す)っている。もはや手慣れた作業だから、とくに何か気をつけることもない。ただ、一定量まで擂りおろすだけだ。だが、人はしばしばこうした単純な作業の間に、ふっとあらぬことに思いが飛んだりすることがある。この場合には、すっかり忘れていた「欲望」、あるいはあきらめていたはずの「欲望」が突然にわいてきて、困惑しつつ苦笑いをしながら、それを振り払うように、また単純作業に力を込めたと言うのである。「欲望なんて」と切り捨てようとしてはみたものの、やはり「あるにはある」と自己肯定しているところが切ない。正確には、一瞬滑稽に思え、次の瞬間になんとも切なくなる。思い当たる人も多いのではなかろうか。この句は、作者がもう若くない人であることを告げている。「欲望」の中身は知る由もないけれど、それがなんであれ、高齢者のうちにも、若者や壮年者同様に種々の欲望が渦巻いていることの一端を示している。当たり前じゃないか、などと言う勿れ。いまにはじまったことではなく、壮年者が牛耳る世間はこのことをいつも忘れてきたのだ。年齢を重ねるうちに欲望などは消えていくものだと、なんとなく、あるときは故意に思ってきたというのが、私たちの歴史的真実である。枯れてきた人間は床の間にでも飾っとけ。そんな具合に高齢者を扱い、しかし善意は装い、たまさか彼らが欲望を発揮しようとすれば、年がいもないと嘲笑する。ときには、威嚇する。やがて自分が高齢に達することはわかっているはずなのに、これである。なんという矛盾だろう。だが、多くの高齢者はこの矛盾をあげつらうこともできずに、矛盾をあたかも自然の摂理のようにして暮らしているのだ。掲句のように、もはや作者が苦笑するしかない小さな哀しみを、壮年者の誰がよく理解するであろうか。『鶴の胸』(2003)所収。(清水哲男)




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