January 2212004

 軒を出て狗寒月に照らされる

                           藤沢周平

語は「寒月(冬の月)」。軒下にいた「狗(いぬ)」が、のそりと庭に出た。折しも月は中天にかかっており、煌々と狗を照らしだしたと言うのである。狗の輪郭も影のそれもがくっきりと写し出されていて、いかにも寒そうだ。寒夜の寂寥感も漂っている。いつか見たことのあるような、懐かしいような冬の夜の情景である。狗一匹の動きから、冷え込んだ夜の大気を連想させたところが巧い。なお初稿では「狗」の表記ではなく「犬」となっていて、私は「犬」のほうが良いと思う。この句は作家・藤沢周平の自信作だったらしく、色紙にはいつも「バカのひとつおぼえのように」この句を書いたという。エッセイに曰く。「この句は、むかしむかし百合山羽公先生にほめていただいた句なので、誰はばかるところもない。臆するところもなく書く。だが、同じひとに二枚も三枚も色紙を出されると、とたんに私の馬脚があらわれる。これはと思う手持ちの句は、『軒を出て』一句だけなのだ」。謙遜しているのではなく、正直な文章だ。彼が句作に集中したのは若き日の結核療養所時代の一年半ほどらしいから、そうそう手持ちがあるはずはない。いま、残された彼の句を見渡してみても、掲句に比肩するものは数句程度だ。でも、それで良いのである。そう思う。どんどん傑作の書ける人はむろん素晴らしいけれど、たまたま先生にほめられた一句を後生大事に抱えている素人同然の人のほうが、私は好きだ。人にはこうした「いじらしさ」があったほうが、人間としての味がよほど良く出る。作品以前に、人ありきではないか。俳句よりも人が大事。『藤沢周平句集』(1999・文藝春秋)所収。(清水哲男)




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