January 1912004

 妄想を懷いて明日も春を待つ

                           佐藤鬼房

語は「春(を)待つ」で冬。八十三歳で亡くなった鬼房、最晩年の作だ。うっかりすると読み過ごしてしまうような句だが、老境と知って読むと心に沁みる。「今日も」ではなく「明日も」の措辞が、ずしりと胸に落ち込む。この「明日」は文字通りに一夜明けての物理的な明日なのであって、「明日があるさ」と歌うときのような抽象的観念的な未来を意味していない。逆に言えば、高齢者にとっての未来とは、すぐにもやってくる物理的な明日という日くらいがほぼ確かなものであって、冬の最中に春を想うことすらが、既に「妄想」の域にあるということだろう。作者の身近にあった高野ムツオの感想には、この妄想は「体力を少しでも取り戻し、春を迎え俳句作りに生きること」とあり、むろんそういうことも含まれてはいようが、まず私は物理的な明日と「春を待つ」心にある春との遠さを思わずにはいられない。もはや十分に老いたことを自覚はしているが、それでも明日という日はほぼ確実に現実として訪れてくるだろう。だから、その「明日も」また今日と同様に、そのまた「明日」を思いつつ、「妄想」のなかの遠い春の日まで生きていこうという具合に。明日から、そしてまた次の日の明日へと……。老人である人の心とは、誰しもこの繰り返しのうちにあるのではなかろうか。八十三歳に比べれば、私などはまだヒヨッコの年齢みたいなものだけれど、しかしもう二十年後くらいのことなどまったく想わなくなっていて、これからはこのスパンがどんどん短くなっていくのであろう。そんな気持ちで句に帰ると、ますます重く心に沈んでくる。遺句集『幻夢』(2004・紅書房)所収。(清水哲男)




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