January 1212004

 隠し持つ狂気三分や霜の朝

                           西尾憲司

とえば雪が人の心を包み込み埋め込むのだとすれば、「霜」は逆だろう。神経を逆撫でするするようなところがあり、人を身構えさせる。作者が「狂気三分」を覚えたのも、心でキッと身構えたからにちがいない。出勤の朝だろうか。いや休日であろうとも、おのれの狂気を「隠し持つ」一日がまたはじまったわけである。このときに「狂気」とは、世の中の仕組みとはとうてい折り合わないけれど、しかし自分にとってはしごく自然な心のありようのことだろう。人はひとりでは生きられないから、誰もが折り合いをつけるために、折り合いのつかない部分を抑えながら生きていく。ワッと叫びたいけど、叫べない。いっそ一思いに叫んだら、どうなるのか。その答えを知っている心がなお自分を押さえつけ、その自己抑圧はおそらく生涯つづいてゆくような気がする。昨日から、谷崎潤一郎が七十七歳のときに書いた『瘋癲老人日記』を読みはじめた。日記という形式だから、ことさらに狂気を隠す必要はないわけで、そこが面白い。テーマを単純化してしまうと、かつての名作『春琴抄』の佐助の狂気を、現実の老人の日常に置き換える試みのようだ。主人公は老人という弱者の立場を逆に利用して、ずる賢くも狂気の現実化を少しずつ計ろうとするのだが、たとえ家族同士の狭いつきあいでも、やはり世の中であることには変わりない。簡単には、事は進まない。掲句の作者の心情は多くに共通するそれだろうから、そんな読者像を熟知していた老いたる谷崎は、ついに人の心は解放されっこないぜと、この世の中に捨て台詞を残したかったかのようである。『磊々』(2002)所収。(清水哲男)




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