January 0812004

 冬草もそよぐ時ありおもひでも

                           橋本 薫

語は「冬草(ふゆくさ)」。枯れているのもあれば、枯れかかっているのもある。むろん、なかには枯れずに青いままの草もある。言われてみれば、なるほどそれらは「おもひで」に似ている。見捨てられ忘れられたような冬の草も、ときには優しく風にそよぐ。それに気がつくとき、人は立ち止まり優しい気持ちになる。春風にそよぐ草々とは違い、冬草のそよぎには明るい兆しが見えるわけではない。「おもひで」も同様で、もはや過去の現実は動かない。動かせない。が、それでもたまさか何かのはずみで、ほのぼのとした動きを見せることがある。楽しかったことだけではなく、苦しかったことですら同じように心の風に優しくそよぐのである。これはおそらく、いまの自分の境遇や気持ちのありようと密接に関係しているのだろう。自分の今が、心のなかにいろいろな風を吹かせるからだろう。そして、もう一つ。心に吹く風は、加齢とともにだんだん穏やかになってくるようだ。微風が多くなるらしい。私はこのことを、詩人・永瀬清子の『すぎ去ればすべてなつかしい日々』という随想集に感じた。「自我が強くなければ物は書けない」と言った詩人の晩年は、自我が「おもひで」のなかに溶け込んでゆく過程なのであった。すぎ去ればすべてなつかしい日々……。自然にこう思える日が、誰にでも訪れるてくれればと願う。しかし、まだまだ私は生臭い草のままのようである。『夏の庭』(1999)所収。(清水哲男)




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