January 0712004

 前髪の額に影さす手毬唄

                           角谷昌子

語は「手毬(唄)」で新年。♪あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ、……。ついぞ手毬唄を聞くこともなくなった。手毬をつく女の子たちも見かけない。だから、この句も実景かどうかはわからないのだが、べつに実景でなくてもよいと思う。まだあどけない女の子が、日溜まりで無心に毬をついている。歌っているのは、どんな唄なのか。手毬唄にはわりに残酷な内容のものが多いけれど、むろん女の子は意味もわからずに歌っているのだ。このとき少女の「額(ぬか)」にさしている「影」は単なる物理的なものでしかないが、作者にはそうは見えない。既にしてさし初めている「人生のかげり」のように思えているのである。この影はかつての幼かった自分にさしていた影なのであり、それはいつまでも無心に生きることを許さない影なのだった。この思いに手毬唄の明るいメロディが重なり、それがかえって哀感を呼ぶ。からっとした光景に湿度の高さを見たところに、作者の発見がある。ところで、この正月に新年の句をたくさん読んでみて感じたのは、手毬もそうだが、いかに新年の遊びや行事が遠くなってしまったかということだった。それでも私などはまだ過去の記憶にあるからわかるのだが、あと半世紀もしないうちに、手毬の何たるかすら忘れ去られてしまうのだろう。そう思うと、どんなに明るく詠まれていても、正月の句はなべて哀しく写ってしまう。『源流』(2003)所収。(清水哲男)




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