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January 0312004

 真っさらで無くてもいいや寝正月

                           榊原風伯

詣でに出かけたり、きちんと挨拶回りをしたりと、正月を粛然とした「真っさら」な気持ちで過ごす人がいる一方で、こういう人もいる。せっかくのまとまった休日だ。思う存分朝寝をして、何をするでもなく一日をやり過ごす。淑気も何もあるものか、これに勝る贅沢なしと「寝正月」を決め込むのだ。どうぞ、ごゆっくり……。ただ変なことを言うようだが、こうした心境になるにも才能が要る。そんな気がする。私は昨春までスタジオ暮らしだったので、暮れにも正月にも休みがなかった。実に久しぶりに仕事のない新年を迎えているわけだが、元日はともかく、昨日あたりからどうも落ち着けないでいる。何もしないで過ごしてよいことはわかっているのだが、ときどき自分に言い聞かせないと、不安になってくる。かといって世間は休みだし、まさか誰かを呼びだして遊ぶわけにもゆかないし、どうにもこの時空間を持て余し気味である。傍目からすれば、私の様子は完ぺきな寝正月なのだろうが、内心はほとんど逆なのだ。掲句に触れて思ったのは、だから寝正月にも才能が必要なのではないかということだった。もう一句、こんなのもある。「ごろりんこごろんと極め寝正月」(北星墨花)。そうか、やはり寝正月も「極め」るものであるらしい。才能に加えて、努力も要るようである。『炎環・新季語選』(2003)所載。(清水哲男)


January 2012013

 九十年生きし春着の裾捌き

                           鈴木真砂女

着は新春に着る晴れ着です。卆寿をこえても春着に袖を通す嬉しさは、若いころと変わりません。いや、若いとき以上にうきうきするのは、その粋な着こなしと裾捌(すそさば)きに円熟味を増してきたからでしょう。毎夜、銀座の酔客たちを小気味よく捌いてきた女将ですから、その立居振舞は舞踊のお師匠さんのように洗練されていたことでしょう。「裾捌き」という日本語は、今はもう、舞台と花柳界だけの言葉になってしまったのでしょうが、掲句のこれは、まぎれもなく真砂女の身のことば、身体言語です。あるいは、数学的比喩を使えば、「九十年生きし」は積分的で、「春着の裾捌き」は微分的です。積み重ねた日々を記憶している身体には、今日も巧みな身のこなしでたをやめぶりを舞っている、そんな老境の矜持があります。ただ、このような持続力は、日々目利きの観者たちの目にさらされていたから可能で、一方で、舞台の幕を引いたときには、「カーテンを二重に垂らし寝正月」という句もあり、オンとオフがはっきりしていたようです。以下蛇足。野田秀樹に『キル』という舞台作品があります。ジンギスカンが現代によみがえり、ファッションデザイナーとして世界を征服する(制服で征服する)というストーリーを初演は堤真一が、再演は妻夫木聡が演じています。『キル』というタイトルは、「切る・着る・kill・生きる」の掛詞になっていて、一方掲句では、「生き」「春着」「裾捌き」の「ki」が脚韻となり、句がステップを踏んでいます。『鈴木真砂女全句集』(2 010・角川学芸)所収。(小笠原高志)




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