December 31122003

 晴れきつて除夜の桜の幹揃ふ

                           廣瀬直人

すがに蛇笏門。重厚な品格がある。こういう句は、作ろうと企んでも、なかなか出てくるものではない。日頃の鍛練から滲み出てくるものだ。専門俳人と素人との差は、このあたりにあるのだろう。句をばらしてみれば、そのことがよくわかる。「晴天」「除夜」、そして「桜の幹」と、これだけだ。いずれもが、特別な風物風景じゃない。よく晴れた大晦日の夜に、これから参拝に出かけようとして、たとえば桜並木の道に出れば、それで句の条件は誰にでもすべて整う。作者だけの特権的な条件は、一切何もないのである。しかし作者以外には、このようには誰も詠まないし、詠めない。まずもって目の前にあるというのに、「桜」に注目しないからだ。いわんや「幹」に、その幹が整然と揃って立っていることに……。何故なのかは、読者各位の胸の内に問うてみられよ。すっかり葉を落して黒々と立つ桜の幹には、何があるだろう。あるのは、来たるべき芽吹きに向かっているひそやかな胎動だ。生命の逞しい見えざる脈動が、除夜の作者の来春への思いと重なって読者に伝わる。「去年今年」の季語に倣って言うならば、さながら「今年来年」の趣がある。除夜にして既に兆している春への鼓動。それはまた、新しい年を待つ私たちの鼓動でもある。「木を見て森を見ず」ではないけれど、専門家はこのように「木を見て木を見る」ことができる。鍛練の成果と言う所以だ。少なくとも私なんぞには、逆立ちしてもできっこないと感心させられた。『朝の川』(1986)所収。(清水哲男)




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