December 27122003

 闘牛士の如くに煤を払ひけり

                           波多野爽波

語は「煤払(すすはらい)」。いまは神社仏閣などの年中行事は別にして、一般には年末の大掃除の意味で使われる。今日あたり、そんな家庭も多いことだろう。句の眼目はむろん「闘牛士の如く」にあるわけだが、いったいどんな格好でどんなふうに掃除をしたのだろうか。まさかマントを颯爽と翻してなんてことはあるまいから、「闘牛士の如く」はあくまでも作者の主観に属するイメージだ。周辺の誰が見ても、闘牛士には見えるはずもない。強いて感じることがあるとすれば、常になく張り切って掃除に励む作者の姿くらいなものである。だが、そんなことは百も承知で、イケシャアシャアと闘牛士を持ちだしたところに、爽波のサービス精神躍如たるものがある。本人だって、具体的なイメージがあるのではない。なんとなく闘牛士みたいだなと思いつつ、機嫌よく掃除ができたのである。で、その突拍子もない気分をそのまま書いて、あとのことは読者にいわば託したというわけだ。どんなふうにでもご自由に想像してくださいな、と。そしてここで重要なのは、作者が自分の滑稽な世界を提出するに際して、ニコリともしていないところだ。「払ひけり」と、むしろ生真面目な顔つきである。この顔つきがあって、はじめて滑稽さが伝わるのだと、ちゃんと作者は心得ている。三流のお笑い芸人がしらけるのは、彼らは滑稽なネタを笑いながら披露するからだ。自分の話に自分で笑うようでは、世話はない。サービス精神の何たるかを履き違えているのである。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)




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