December 25122003

 賀状書く痴呆かなしき友ひとり

                           細見しゆこう

状を書いているうちに、風の便りに痴呆が進んでいる友人宛のところで手が止まった。彼に、この年賀状が読めるのだろうか。読めたとはしても、差出人が誰かを理解できるのか。あんなに元気だった奴が何故……と、信じられない思いで暗く悲しい気持ちに沈みこむ。だが、やはり作者は例年のように彼に元気よく書いただろう。そう思いたい。たとえわからなくたって、それでよい。それが友情というものではないか。幸い、私には痴呆の友はいない(はずだ)。ただ、毎年のようにポツリポツリと亡くなる友人がいる。今年も、同級生ひとりと若い友人ひとりを失った。パソコンに入れた名簿を見ながら順番に書いてきて、亡くなった人の名前のところで筆が止まる。出そうか出すまいかの話ではなく、もう出してはいけないのだから、暗澹とする。そして元気だったころの姿を思い出すのだが、妙なもので、こういうときに浮かんでくるのは何故か些細なイメージばかりだ。よく赤いセーターを着ていたなとか、そういうことである。もう一つ、焦点が結ばない。そして最も辛いのは、もはや不要となった彼のアドレスを名簿から消去するときだ。パソコンでの操作だから、一瞬で消えてしまう。が、その操作には逡巡が伴ってなかなか踏ん切れない。あらためて電話番号などまで読み直して、それから思い切って消去ボタンを押す。そうすれば、見事に消えてなくなる。しかし、なんだかそのまま通りすぎるのも忍びなくて、また消去作業の取り消しボタンを押してみたりする。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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