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December 10122003

 襤褸着て奉公梟に親のゐて

                           ふけとしこ

語は「梟(ふくろう)」。留鳥だから四季を問わないが、冬の夜に聞く鳴き声は侘しくもあり凄みもあるので、冬の季語として定まったらしい。絵や写真で見る梟はどことなく愛嬌のある感じだが、実際は肉食する猛禽だ。鼠なども食べてしまうという。句はそんな生態をとらえたものではなく、あくまでも遠くから聞こえてくる独特な鳴き声に取材している。「襤褸(ぼろ)着て奉公」とは、いわゆる聞きなしだ。昔から人間は、動物の声を地域や聞く立場の差異によって、いろんなふうに聞きなしてきた。梟の声も単にホーホーホホッホホーホーと聞くのではなく、句のように聞いたり、あるいは「五郎助ホーホー」「糊つけて干せ」、なかには「フルツク亡魂」なんて怖いのもある。それでなくとも寂しい冬の夜に、こいつらの声はなお寂しさを募らせる。作者はそれを「襤褸着て奉公」と聞き、ああやって鳴いている梟にも親がいて、お互いに離れ離れの身を案じているのだと哀れを誘われている。スズメやカラスなど日頃よく見かける鳥に親子の情愛を思うのは普通だけれど、夜行性の不気味な梟にそれを感じたのは、やはり寒い季節に独特のセンチメントが働いたからなのだろう。その働きを見逃さず書き留めたセンスや、よし。他の季節であれば、同じように聞こえても、親子の情までにはなかなか思いがいたらない。奉公という雇用形態が実体を失って久しいが、戦後の集団就職は奉公につながる最後のそれだったと思う。中学を卒業してすぐに親元を離れ、町工場などに住み込みで働いた。子供はもちろん送り出した親も、どんなに寂しく心細かったことだろうか。そんな苦労人たちもみな、いまや高齢者の域に入った。そうした人々が読んだとしたら、掲句はとりわけて身に沁み入ることだろう。『伝言』(2003)所収。(清水哲男)


December 11122007

 さっきまで音でありたる霰かな

                           夏井いつき

(あられ)は地上の気温が雪が降るよりわずかに高く、零度前後のときに多く見られるという。激しい雨の音でもなく、そっと降り積もる雪でもなく、もちろん雹の賑やかさもなく、霰の音はまさにかすかなる音、かそけき音だろう。そのささやかな音がいつの間にか止んでいる。それは雪に変わったのだろうか、それともあっけなく溶けてしまったのだろうか。作者は今現在の空模様を問うことなく、先ほどまでわずかにその存在を主張していた霰に思いを傾けている。霰というものの名の、短命であるからこその美を心から愛おしむように。蛇足ながら雹との違いは、直径2〜5mmのものを霰、 5mm以上のものを雹と区別する。まるでそうめんとひやむぎの違いのようだが、俳句の世界では、霰は冬、雹は夏と区別される。雷雲の中を上下するうちに雪だるま式に大きくなるため雷雲が発生しやすい夏に雹が降るというわけらしい。〈傀儡師来ねば死んだと思いけり〉〈ふくろうに聞け快楽のことならば〉『伊月集 梟』(2006)所収。(土肥あき子)


December 23122008

 許されてゐる昼酒の大くさめ

                           榎本好宏

原庄助氏を引き合いに出すまでもなく、お日さまの高いうちから飲酒するというのは好ましくないという日本の良俗がある。くしゃみやげっぷも生理的現象とはいえ、人前ですることは恥ずかしいという西洋風のお行儀がすっかり浸透したようだ。そういえば、萎んだ芙蓉みたいなくしゃみばかりになり、打上げ花火のような豪快なくしゃみを聞くことも稀になった。さらに、セクハラ、パワハラ、モラハラとハラスメントが声高に言われるなか、ずいぶん堅苦しいお約束が増えたが、それによってより健全で快適な社会になったのかは心もとない。昼酒も大くさめも、どちらも禁忌を破るゆえに成り立つ快感がある。昼酒飲みながら、遠慮がちにくしゃみなんかしなさんな、というたっぷりした空気のなかの掲句である。さらに『食いしん坊歳時記』(角川学芸ブックス )の著者でもある作者のこと、さぞかしおいしい匂いが並んでいることだろう。垂涎(あ、これもお行儀委員会に叱られそうな言葉ですね)の昼酒である。〈煤逃げをしてはみたもの出たものの〉〈梟にリラの匂ひを聴きにゆく〉『祭詩』(2008)所収。(土肥あき子)


January 1812011

 梟やわが内股のあたたかし

                           遠藤由樹子

ーロッパでは森の賢者と呼ばれ、日本では死の象徴とされてきた梟は、動物園やペットとして飼われているものでさえ、どこか胸騒ぎを覚えさせる鳥である。集中前半に収められた〈梟よ梟よと呼び寝入りけり〉の不穏な眠りを象徴した梟が印象深かったこともあり、後半に置かれた掲句にも丸まって太ももの間に手をはさんで横になる姿勢を重ねた。左右の脚の間にできるわずかな空間のやわらかなぬくもりが、安らかな心地を引き寄せる。それは自分で自分を抱きしめているような慈しみに満ち、そして少しさみしげでもある。おそらく胎児の頃から親しんできたこのかたちに、ひとりであることが強調されるような様子を見て取るからだろう。寒さに耐えかねてというより、さみしくてさみしくてどうしようもないときに、人は自らをあたためるようなこの姿勢を取ってしまうのだと思う。血の通うわが身のあたたかさに安堵と落ち着きを取り戻したのちは、元気に起き上がる朝が待っている。『濾過』(2010)所収。(土肥あき子)


November 29112011

 冬麗や象の歩みは雲に似る

                           大橋俊彦

に象のかたちを見てとることはあっても、地上最重量の象を見て、雲と似ているなど誰が思いつくだろう。とはいえ、言われて動物園などで目の当たりにしても象の歩みは、どしんどしんと地を響かせるようなものではなく、対極のひっそりした趣きさえたたえている。これは側対歩という同じ側の足を踏み出し、前足のあったところにきれいに後ろ足が重なるという歩き方のためと、足底に柔らかいパッド状に脂肪が付いていることによるのだというが、象のもつ穏やかで優しげな雰囲気もひと役買っているように思う。以前、タイで象の背に乗ったという友人が「思いのほか揺れた」と言っていた。もしかしたら、雲もまた乗ってみれば思いのほか揺れるものなのかもしれない、などと冬の青空に浮かぶ雲を眺めている。〈梟の視界の中を出入りせり〉〈冬至湯の主役にゆず子柚太郎〉『深呼吸』(2011)所収。(土肥あき子)


November 21112014

 梟を眺め梟から眺め

                           原田 暹

は鋭いカギ状の短い嘴と強力な爪のある脚を持った夜行性の肉食鳥である。だから普段は動物園くらいでしか見られないが、一度利根川河畔で見たことがある。その時は目の前でカラスと組んず解れずの大格闘をしていた。何を間違ってか、昼間その姿を見せてしまったのである。カラスは夜間は動けなく、夜行性の梟に度々襲われるらしい。特に子育て中の子ガラスは標的である。それやこれやで昼間は立場が逆転、勝負は圧倒的にカラスが優勢となる。揚句は梟が2回、眺めが2回でこれを「を」と「から」で結んで出来上がった。確かに梟を見ているとあのまん丸い梟の目からも見られているのかも知れないと思う。この作者と梟の間合いがどこか可笑しい。『天下』(1998)所収。(藤嶋 務)


December 09122014

 野良猫に軒借られゐて漱石忌

                           尾池和子

際には猫より犬派だったようだが、漱石といえば猫、そして夏目家の墓がある雑司が谷界隈には野良猫が実に多い。野良猫の寿命は4〜5年といわれ、冬を越せるかどうかが命の分かれ目ともいわれる。先日、冷たい雨を軒先でしのいでいる猫のシルエットに気づいた。耳先がV字型にカットされている避妊去勢済みの猫である。縁側で昼寝をするほどの顔なじみではあるが、一定距離を保つことは決めているらしく、近づくと跳んで逃げる。ああ、またあの猫だな、と思いつつ、野良猫に名前を付けることはなんとなくはばかれ、白茶と色合いで呼んだりしている。そういえば『吾輩は猫である』の一章の最後に吾輩は「名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯無名の猫で終るつもりだ」とつぶやいていた。軒先で雨宿りする猫はどう思っているのだろう。漱石忌の今日もやってきたら、きっと名前を付けてあげようかと思う。「大きなお世話」と言われるだろうか。〈ふくろふに昼の挨拶してしまふ〉〈双六に地獄ありけり落ちにけり〉『ふくろふに』(2014)所収。(土肥あき子)


January 0612015

 抱かれたし白ふくろふの子となりて

                           森尻禮子

クロウは、鳥のなかでも、顔が大きく扁平で、目鼻立ちが人間に近い。ヨーロッパでは古くから「森の賢者」とされ、知恵の象徴としてきたが、日本では不吉なものだった。しかし、最近では「不苦労」「福来路」「福老」などと読み替えて、縁起を上乗せし、ウサギやカエルについで、小物などの収集家の多い生きものとなっている。シロフクロウといえば、「ハリー・ポッター」でハリーのペットとして登場し、その大きく、美しく、賢い姿に一時ペットとしての人気も急上昇し、「ふくろうカフェ」なる場所も今や話題だ。それしにしてもフクロウの子どもときたら、手のひらサイズで全身ふわふわ、うるうるの瞳をうっとり閉じる様子などとても猛禽類とは思えない可愛さである。ふくろうカフェの紹介には「鳥というより猫に近い」とあり、猫好きが心惹かれる道理と納得した。〈鷹狩の電光石火とはこれぞ〉〈鳰の巣に今朝二つめの卵かな〉『遺産』(2014)所収。名前の表記はネヘンに豊。(土肥あき子)


January 3012015

 ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない

                           種田山頭火

(ふくろう)は夜行性の猛禽類である。灰褐色の大きな翼で音を立てずに飛翔し小動物を捕獲する。その鳴き声は「ボロ着て奉公」とか「ゴロスケホーホー」などと聞こえてくる。漂浪の俳人山頭火が野宿をしながらそのゴロスケホーをじっと聴いている。梟のほうはそれが本性なのだから眠れないのだが、山頭火の方は淋しくて眠れないのか物を思って眠れないのかやはり闇の中で起きている。誰にだって寝付かれぬ夜はある。他に<だまつてあそぶ鳥の一羽が花なのか><百舌鳥のさけぶやその葉のちるや><啼いて鴉の、飛んで鴉の、おちつくところがない>など。『山頭火句集』(1996)所収。(藤嶋 務)


December 01122015

 藁玩具買ひふくろふに鳴かれけり

                           橋本榮治

を収穫したあとの藁は、生活のあらゆる場面で活用されていた。わらじや草履、縄、むしろ、わら半紙などもなつかしい。実用的なもの以外にも郷土玩具としてさまざまな細工物となって多くの人の手に取られてきた。歌川広重の「雑司ヶ谷之図」には鬼子母神門前の料理屋や参拝客が描かれており、手には「すすきみみずく」が提げられる。この玩具の由来は病気の母の薬を買うことができなかった貧しい少女の夢枕に一匹の蝶が現れ、「芒の穂でみみずくを作り、お堂の前で売るとよい」と託されたという。どれほど貧窮していようと藁だけは手に入れることができたのだ。掲句の玩具が「すすきみみずく」であるとは限らないが、下五の「鳴かれけり」によって、手にした玩具にふくろうが同調するようにも思えてくる。『放神』(2008)所収。(土肥あき子)


July 2272016

 昼寝覚電車戻つてゐるやうな

                           原田 暹

くある錯覚。以前は酷暑のおりは疲労がたまり夜の睡眠不足を補う意味で昼寝が奨励された。今ではビルも家庭も車内でも空調が行き届き昼は安眠の機会となっての昼寝である。電車の座席はとにかく寝心地がよい。そこでついつい居眠りに陥る。心底寝入ってはいないので次は何々駅のアナウンスではちらと目が覚める。作者の場合は進行中での目覚めだろうか睡眠の中に失っていた自分を取り戻したものの自分の立ち位置がはっきりしない。動いてはいるもののさてはて戻っているような気もするしという半分だけ覚醒の状態。隣りに並走している電車があれば余計ややこしくなる。追い付いたり追い越したりしている内にとろとろと混乱して眩暈がする。ある夏の眠たい午後の昼寝覚め、突如寝覚めて乗り越しに気が付いてあわてても後の祭りである。仮にふいと飛び降りても網棚に忘れ物などをしたら大事件となってしまう。他に<人日の茶山にあそべ天下の子><梟を眺め梟から眺め><蟬時雨駐在さんの留守二日>など所収。『天下』(1998)所収。(藤嶋 務)




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