December 04122003

 マラソンの余す白息働きたし

                           野沢節子

語は「白息(しらいき)・息白し」で冬。そろそろ、連日のように吐く息が白く見えるようになる。いわゆるリストラの憂き目にあった人の句ではない。「余す白息」から、作者の健康状態のよくないことがすぐに読み取れる。健康な人であれば、「余す」の措辞はなかなか出てこないだろう。せいぜいが「吐く白息」くらいだろうか。ところが作者には、走りすぎるマラソン・ランナーの吐く白い息が、羨ましくも生きていくエネルギーの余剰と写ったのだ。自分には到底、あんなふうに「白息」を「余す」ようなエネルギーはない。いくら働きたくても、私には余すエネルギー、体力などないのだから無理だろう。しかし、みんなと同じように私も身体を使って働きたいのだ。切実にそう思う作者の目に、ランナーの白息がどこまでもまぶしい……。このように、句は作者の境遇を何も知らなくても読むことができるが、少し付言しておく。句は、作者の二十数年来の宿痾であったカリエスがやっと治癒した後に書かれたものだ。一応名目的な健康は取り戻したものの、むろんそう簡単に体力がつくわけのものではない。病気から解放された信じられないような嬉しさと、しかし人並みの体力を持ちえない哀しみとの交錯する日常がつづいていた。このとき、作者は既に三十八歳。一度も働いたことはなく、あいかわらず両親の庇護の下にあった。焦るなと言うほうが無理だろう。なりたくて、病気になる人は一人もいない。しかし不運としか言いようのない境遇のなかにあって、作者と同じく多くの病者が俳句をよすがとし、その世界を更に豊饒なものとしてきた。俳句が今日あるのは、社会的弱者の目に拠るところが実に大きいのである。『雪しろ』(1960)所収。(清水哲男)




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