November 30112003

 サルトルもカミユも遥か鷹渡る

                           吉田汀史

語は「鷹」で冬。一般的に長い距離は移動しないが、種類によっては寒くなると南へ「渡る」のもいる。眼光炯々として姿態清楚な猛禽が、群れをなして「遥か」彼方へと去っていく。ちょうどそのように、熱い情熱で時代を告発し説得しつづけた「サルトルもカミユ」も二人ともが、既に故人となり、その思想も「遥か」な地平へと没してしまったかのようである。昨今の世の動きを見るにつけ、彼らが火をつけ世界中に共鳴者を獲得した思想とは何だったのかと思う。単なる郷愁句ではなく、作者はやりきれない思いの中で反問しているのだ。私もまたサルトルやカミュに強い共感を覚えた一人だっただけに、彼らの思想を一時のファッションとしてやり過ごすわけにはいかない。当時、ある人が「実存主義とは何か」という問いに答えて、こう言った。「郵便ポストが赤いのも電信柱が高いのも、みんなアタシのせいなのよ。これが実存主義さ」。むろん小馬鹿にした揶揄の言だけれど、あながち当たっていないこともないだろう。なぜなら、実存主義最大の主張はアタシ(個人)の存在と尊厳をあらゆる価値の最上位に置くことだからだ。簡単な例で言えば、いかなる事態にあろうとも、常に国家よりも個人が大切ということである。そのためには、他方で当然数々の困難をもアタシが引き受ける思慮と勇気とが必要となる。第二次世界大戦の悲惨な熾きがまだくすぶっていた時代のなかで、出るべくして出てきた考え方だ。なんだい、そんなことなら「常識」じゃないか。今日、サルトルもカミュも読まない世代の多くは言うだろう。その通りだ、「常識」なのだ。言うならば、当時だって当たり前の言説だったのである。が、この「常識」は、今の世の中でいったいどこでどういうふうに機能し通用しているのかね。つらつら世の中を見回してみるまでもない。「あれよあれよ」の間に、どんどん実質的には非常識化している現実に怖れを抱いてしかるべきではないのかね。それこそ私の常識は、実存主義の鷹がいまや絶滅の危機に瀕していると告げている。『一切』(2002)所収。(清水哲男)




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