November 01112003

 鵯や紅玉紫玉食みこぼし

                           川端茅舎

語は「鵯(ひよどり)」で秋。鳴き声といい飛び回る様子といい、まことにちょこまかとしていて、かまびすしい。そのせわしなさを「食(は)みこぼし」と、たったの五文字で活写したところに舌を巻く。鳴き声にも飛び方にも触れていないが、鵯の生態が見事に浮き上がってくる。しかも「食みこぼし」ているのは「紅玉紫玉」と、秋たけなわの雰囲気をこれまた短い言葉で美しくも的確に伝えている。名句と言うべきだろう。「鵯」で思い出した。辻征夫(俳号・貨物船)との最後の余白句会(1999年10月)は新江戸川公園の集会所で開かれたが、よく晴れて窓を開け放っていたこともあって、騒々しいくらいの鳴き声だった。「今回の最大の話題は、身体の不自由さが増してきた辻征夫が、ぜひ出席したいと言ってきたことで、それならぜひ出席したい、と多田道太郎忙しい日程をこの日のために予定。当日はショートカットにして一段と美女となった有働さんと早くより辻を待つ。その辻、刻ぴったり奥さんと妹さんに支えられて現れる」(井川博年)。このときに辻は、例の「満月や大人になってもついてくる」を披露しているが、兼題の「鵯」では「鵯の鋭く鳴いて何もなし」を用意してきた。合評で「これは鵯じゃなくて百舌鳥だな」と誰かが言ったように、それはその通りだろう。よく生態を捉えるという意味では、掲句の作者に一日ならぬ三日くらいの長がある。が、まさかそのときに辻があと三ヵ月の命数を予感していたはずもないのだけれど、今となってはなんだか予感していたように思えてきて、私には掲句よりも心に染み入ってくる。辻に限らず、亡くなられてみると、その人の作品はまた違った色彩を帯びてくるようだ。『川端茅舎句集・復刻版』(1981)所収。(清水哲男)




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